ループする三部作 or 四部作?

年末年始は閻連科を読んでいて、ようやく『炸裂志』がみ終わりました。

 

このところの読書録は閻連科が続いていて、『父を想う』『年月日』も読み、少し前には『愉楽』も読破していますが、これらを読んでみて感じたことが……

 

当初、『年月日』を読んだとき、この作品は『愉楽』の後日談のような気がすると思いました。が『炸裂志』も一連の作品ではないかと思えました。では、既にこれらの作品を読んでいるという前提で以下は書いてしまいますので……

『愉楽』は山西省の田舎の村の障害者たちがサーカス団を結成し、ソ連(ロシア)からレーニンの遺体を買い取って村の観光の目玉に使用と奮闘するお話です。共産主義が打ち倒されたとはいえ、「もう不要でしょうからレーニンの遺体を譲ってください」と外国から言われて、ロシア側が「いいですよ」と承知するわけがありません。ですから、ストーリーの結末は見えているようなものです。そして、このサーカス団が人気を博し、貧乏な農村の障害者たちは一躍大金持ちになるわけです。しかし、そこは愚かな農民のこと、最後には騙されてほとんどスッカラカンになってしまいます。

もとの農村生活に戻り、少し時は流れ、いつもどおりの素朴な暮らしをしていた村を日照りが襲い、やむにやまれず村を挙げて町へ移るというのが『年月日』です。そして先じいさんとメナシの末路はおくとして、町へ行っていた村人たちが日照りの村に戻ってきて、また昔ながらの貧乏暮らしが続くのだろうと予想されます。

そして『炸裂志』は、そんな貧乏な寒村が、どういった天のいたずらなのか、あれよあれよという間に発展し、ついには中央直轄都市にまで登りつめるというストーリーです。『炸裂志』中の閻連科が描く炸裂市では、最後に市民挙げて闘いへと繰り出していきます。たぶん結末は悲惨なものでしょう。作品中、女子供や障害者は戦争へ行かず、炸裂市に残ることになっています。

戦争で健康な大人たちはみな戻ってこず、障害者だけが残され、発展の夢が破れた炸裂市、ここで物語は『愉楽』の寒村へとループするわけです。

もちろん『炸裂志』の中で市民挙げて戦争へ向かうのは閻連科の創作で、炸裂市は発展し続けているということらしいのですが、ループが続くのか、一直線の道を進むのか、歴史は繰り返すなどと言いますから、実際の中国の発展、そしてそのひずみ、光と影を考えながら、この作品を読むと面白いと思います。

で『炸裂志』の訳者あとがきにもありますが、主人公は四兄弟なのですが、この男兄弟の描き方に『父を想う』の兄弟の姿が重なるのは、両者を読んだ方なら誰でも想像できることでしょう。閻連科さんはまったく別の作品だとおっしゃるでしょうし、たまたま作品の舞台がどれも同じ地区というだけの共通項ですが、やはりこの四作品は四部作として読まれるべきではないかと、思うのです。