中国農民の生き様

出版社の特権、閻連科の新刊『年月日』を読みました。ゲラでは既に読んでいたのですが、今回本の形になり、初めて著者による「日本の読者へ」と「訳者あとがき」を読みました。

順序は逆になりますが、「訳者あとがき」によると、本書は同じく閻連科の『父を想う』と重なる部分が多いとのこと。

今年刊行された閻連科の散文集『父を想う』(飯塚容訳、河出書房新社、二〇一六年)には、農民だった彼の父親の姿が描かれています。…(中略)…この姿はまさに先じいです。またその少し前にこんな描写があります。…(中略)…この子どものころの閻連科は、まるで先じいのそばをついて回るメナシのようです。(本書150頁)

これまで閻連科というと「発禁作家」「反体制派」的な見方がほとんどだったと想いますが、本書に関して言えばそんなところは感じられず、素朴で温かさ溢れる作品に仕上がっています。そして、来る12日には、その閻連科氏と『父を想う』の訳者・飯塚容さんのトークイベントが予定されています。この「訳者あとがき」はトークイベントが決まる前に書かれていたはずですが、いみじくも、トークイベントに対する訳者・谷川氏からのエールというか、テーマ設定のようにも感じられます。

またこの「訳者あとがき」にも書いてありますが、この作品は『愉楽』とはまるで異なるテイストではあるのですが、舞台が同じ地区ということもあり、その後日談のようにも読めます。レーニンの遺体購入計画を巡る雑伎団で翻弄された村人たちが、もうあんなふうに金に踊らされるのはまっぴらだ、百姓は百姓らしく土にまみれて実直に働こうじゃないか、と決意して数年、ようやく平穏が訪れたと思った村を大飢饉が襲う。生き抜くために村を捨て町へ働き口を求めに行く村人たち。しかし、自分の畑にたった一本生えてきたトウモロコシを見つけ、村に残ることにした先じいさん。盲目の飼い犬と共に、このトウモロコシを無事に実らせ、来年村人たちが戻ってきたときに植える種とするために、食べるものも飲むものもなくなった村で必死のサバイバルを繰り広げます。しかし、わずかに見つけた食べ物をネズミに狙われ、ようやく見つけた泉には恐ろしいオオカミが待ち受けていて……

それでもなんとかトウモロコシを必死に守り育てる一人と一匹。いや、すでに先じいさんの気持ちとしては盲目の犬は犬ではなく息子です。表4オビの文小は思わず涙を誘われます。そんな先じいさんと盲目の犬、二人はトウモロコシを実らすことができるのか? そして村人たちが帰ってくるとき、二人は笑って村人を迎えることができたのか? それは本書をお読みください。

さて、閻連科氏による「日本の読者へ」には

「へえ、こんな小説も書く人だったんだ。こんな小説を書くことができたんだ!」と感嘆のため息を漏らしてくださることを願っています。たった一人でも、ほんの数人の読者のため息でも、私にとってはそれが最高で最大の褒賞です。(本書146頁)

とあります。今回、本書の刊行に合わせて閻連科氏が来日し、国内数か所でシンポジウムに参加されます。それだけではなく新宿と渋谷の書店でトークイベントも開催されます。書店イベントは閻連科氏が日本の読者と接する機会を持ちたいという強い意向で実現しましたが、閻連科氏の希望どおり、「こんな小説を書くことができたんだ」と直接伝えられる好機です。

 

ただ、これまで邦訳された作品を読んでいると、農民に対する温かい眼差しは共通しています。この『年月日』は決して「こんな小説」ではないと、あたしには思えます。あえて言うならば、本書は現代版『大地』ではないか、そんなふうにも感じられます。

2016年11月4日 | カテゴリー : 罔殆庵博客 | 投稿者 : 染井吉野 ナンシー