鑑から鏡へ~日本という壁~

昨日は午前中にちょっと会社へ行っていくつか仕事をこなし、午後からは東京大学で行なわれた国際シンポジウム「日本という壁」を聞きに行ってきました。午前中から始まっていたシンポジウムでしたが、午後の「パネル3」、『生まれるためのガイドブック』『ぼくは覚えている』の訳者である小林久美子さんが進行役で、柴田元幸さん、辛島デイヴィッドさん、鴻巣友季子さんがパネリストとして登壇した「翻訳と『壁』 英語と日本語の狭間から」のパートから参加しました。どの話も興味深く聞き入ってしまいましたが、手元のメモを参考に少し紹介いたします。

 

柴田さんが明治以来の日本の翻訳について「仰ぎ見る翻訳」から「対等な翻訳」へと変わっていったと指摘されました。それでも、毎日メジャーリーグで活躍する日本人大リーガーについては新聞も大きく報じているけれど、もしこれがメジャーではなく韓国や台湾のリーグであったら、ここまで報じられることはないだろうし、そんなところにもまだまだ「正解は欧米にある」という「仰ぎ見る」感が完全には払拭されていないと述べていらっしゃいました。また、ご自身が関わる雑誌「MONKEY」でも、表紙に英文をあしらうとなんとなくおしゃれに見えるという感覚が日本人にはある、とも。本文はほとんど日本語なのだから英語をあしらう必要性はまるでないのに、英語をデザインとして使う本や雑誌が多く、それなら別にアラビア語でもハングルでも、タイ語でも構わないはずなのに、圧倒的に英語や欧米の言語が使われるという現実。

改めて指摘されると確かにその通りだと感じました。柴田さんはまた、古代から近代までは中国を、近代以降は欧米を目標、モデル、正解として仰ぎ見ていた日本は、外に正解を求める国、上下関係の国だとも指摘されていました。そこで挙げた例として、アメリカのお店では店員も客も入店したときの声かけはどちらも「ハイ」だけれど、日本では店員は「いらっしゃいませ」と言い、客は基本的に無言であるのが普通であり、こういうところにも対等な関係の欧米、上下関係の日本という姿が見て取れるとのことです。

こんな話を聞いていて、あたしは新刊『翻訳のダイナミズム』を思い出しました。同書は、後半に日本における明治以降の翻訳について紙幅をかなり割いていますので、今回のシンポジウムに集まった方ならきっと興味を持っていただけると思います。

その後は村上春樹、否、ハルキ・ムラカミについて語った辛島さん、和文翻訳と文芸翻訳の違いから深読みと浅読みのバランスを指摘した鴻巣さんと、あっという間の90分でした。

続いては閻連科さん。来場も俄然多くなったような気がしましたが、気のせいでしょうか?

閻連科さんというと「発禁作家」というイメージが強いかもしれませんし、出版社もそういうキャッチで翻訳を刊行していることが多いですが、閻連科さんご自身は、発禁処分を受けるとそれに対抗しようとする気持ちが生まれ、イマジネーション溢れる作家にとって検閲など存在しない、と力強く述べていらっしゃいました。その上で、ペンなど書くものを取り上げられない限りは、どんなことがあっても書きつづけるとおっしゃり、もし自分の作品が読まれないことがあるとすれば、それは作品そのものの出来が悪いからであって、決して検閲によるものではないと、とのこと。あの、中国国内で文章を発表し続ける作家の力強さを十二分に感じさせるお話でした。

そして最後は多和田葉子さん。

壁と言えばベルリンの壁、そんな外的な壁ではなく、特に日本を見ていると東日本大震災とそれに続く原発問題の後、みずから書かなくなった作家が多かったような気がすると指摘。そして「命」と「いのち」については、英語やドイツ語では「いのち」を表わす「LIFE」には「生活」といった含意もあるが、日本語の「いのち」にはそういうものはなく、生命限定であり、漢字の「命」だと上の者の言葉といった含意がある、とのこと、そして「国」と「命」の問題に話は及び、北条民雄『いのちの初夜』などを取り上げながら、命と国を結びつけるとろくなことはない、というようなことを盛んに指摘されていました。

と、以上三つの講演を聴講いたしましたが、始まる前は「長いなあ」とプログラムのタイムテーブルを見ながら思っていたのですが、どれもあっという間、本当に短く感じられました。そして、翻訳について改めて考えさせられました。

日本の翻訳文化は世界的に見ても大したものだと思います。誰にどこで聞いたか忘れましたが、日本は高等教育を自国語で行なえるが、それはすばらしいことであると。東南アジアなどは高等教育になればなるほど英語でしか講義されず、必然的に高等教育を受けるためには英語ができなければならなくなる、しかし日本ではそんな必要はない、と。

もちろん、そのために「日本人の英語力は…」といった議論が起こるわけですが、高等教育が英語でしかなされず、一部の少数エイリーとだけが高等教育を受けられるような社会と、意味がきちんとわかっているのかはともかく、多くの人がさほど苦労せずに高等教育を受けられる社会と、どちらがよいのでしょう? そんなことも考えた一日でした。