土曜日の、丸善&ジュンク堂書店渋谷店でのイベント。
あたしの勤務先から出ている「ボラーニョ・コレクション」の訳者である、野谷文昭さん、斎藤文子さん、柳原孝敦さんの三名での鼎談でした。それぞれ『アメリカ大陸のナチ文学』『はるかな星』『第三帝国』の翻訳を担当されています。刊行が一番新しい『第三帝国』を中心に、それぞれが担当された作品も交えつつ、ボラーニョ作品全般にわたるトークで盛り上がりました。
で、あたしも、一応は「ボラーニョ・コレクション」全巻読破しているので、非常に楽しく、なおかつ興味深く聞き入ってしまいました。これは恐らく今回のイベントに参加された誰もが同じではないでしょうか。
ボラーニョ作品の魅力って何だろう、とあたしもトークを聞きながら考えてみました。ぐいぐい引き込まれる文章の力というのはまず間違いなく感じるのですが、それって人によって感じ方も異なるでしょうし、うまいこと客観的に言い表わせないですね。
描写が美しいとか、登場人物の心理が丹念に描かれているとか、そういう感じではないです。むしろ淡泊な、突き放すような、あとは読者に考えさせるような、そんな印象を受けます。
確かに、登場人物が多く、いろいろと絡み合っているのですが、それを最終的にきれいに回収しようという感じでもないです。だからといって、そういう終わり方が不満に感じられるかと言われると、そうではなく、「こうではないか」「ああではないか」と自分なりに考えて楽しめます。
そしてほとんどの作品を通じて感じられるのは、ボラーニョはやはり詩人だ、ということです。もともと詩人であることは有名な話ですし、若いころは詩作に励んでいたことも「訳者あとがき」で何度も言及されています。
本人は詩ではなく小説で身を立てるようになったとはいえ、やはりベースは詩にあるというのは作品を読んでいればよくわかります。たぶん、スペイン語の原文でならなおさら感じられるのではないでしょうか。
だからといって、詩的な描写、というのともちょっと違う気がします。確かに「この部分は詩のようだ」と感じられるところは散見しますが、作品全体が詩のようになっているわけでもありません。
あとは、今回のイベントでも話題として取り上げられた、執拗にナチを取り上げるその姿勢が特徴的です。おそらくはチリのクーデターや南米の政情不安を身をもって体験したボラーニョの関心が、国家の暴力の最大のものとしてのナチを取り上げるエネルギーになっているのではないかと思います。ナチを描くことによって、現実の南米の暴力を告発していると言うと言いすぎかも知れませんが。
そしてもう一つ、これは『アメリカ大陸のナチ文学』の解説に書かれていたのではないかと思いますが、やはり南米にはナチの残党が多く潜伏していたということからくる身近さ、そんなのがナチを取り上げる一因になっているのかな、とも思います。