戦後70年と言うより、アコーディオンの音

今年は戦後70年で、今日をピークにいろいろなことがありましたし、引き続きあります。たぶん、そんな中で一番の注目は戦後70年談話だったのではないでしょうか? 結果的にどうでしたでしょうか? 新聞やテレビで既にかなりの論評が出ていますが、「まあ、あんなものだろ」という予想の範囲内だったという意見が多いのではないかと思います。

個人的にいろいろ思うことはありますが、その中で気になったのは日露戦争の位置付け。談話では「日露戦争は、植民地支配のもとにあった、多くのアジアやアフリカの人々を勇気づけました。」とあります。確かに「あんな小さな島国の日本が超大国ロシアを破った」ということ、「日本もつい少し前に近代化を始めたばかりの後進国だったのに、やり方次第ではヨーロッパの先進国に負けない国力をつけられるんだ」という事実は、いずれも植民地支配に苦しむアジア各国の人びとに勇気を与えたのは事実でしょう。でもその後の日本の歩みが、果たしてアジアの人たちに勇気を与えるようなものだったのかは疑問です。そのあたりのことは『アジア再興』を読むとよくわかると思います。どれだけアジアの人たちが日本に裏切られたのか、ということが。

その他、戦争を語り継ごうという特集が多く見られますが、あたしにとって戦争は非常に遠い出来事です。もちろん直接知る世代ではないことはもちろんなのですが、父方・母方どちらにも戦争に行った人がいないし、誰も戦争で亡くなっていないのです。父は昭和10年生まれで、戦争当時は房総の方にある本家筋へ疎開していましたが、田舎でのんびり、のびのび育ったような話しか聞いたことがありません。母は昭和18年生まれで、新潟の山の中の農家でしたから、ほぼまったく戦争の記憶はないようです。せいぜい村に疎開してきていた人が大勢いたということくらいのようです。

というように、あたしにとって先の大戦は非常に遠いものなのです。さらに気持ちの上でも遠くしているのが、幼いころに見た傷痍軍人の姿です。これについては以前このダイアリーに書いたことがありますが、当時住んでいた巣鴨のとげぬき地蔵の地蔵通り、巣鴨駅川の入り口付近にはアコーディオンを弾く傷痍軍人の姿がありました。余談ですが、だから、あたしはアコーディオンも嫌いなのです。どうしても好きになれません。

この腕や足のない初老の男性たち、子供心には恐怖以外の何ものでもありませんでした。もちろん当時のあたしには傷痍軍人という言葉も存在も知るよしもないですし、あの人たちがどうしてああいう姿になってしまったのか、両親に尋ねるような勇気もありませんでした。ただただ怯えていただけです。幸いに、当時のわが家はとげ抜き地蔵の高岩寺を中心に考えると、巣鴨駅とは反対側にあったので、高岩寺を越えて駅の方まで歩かなければ傷痍軍人を見ないで済みましたので、滅多に駅の方まで行くことはありませんでしたが。

で、やはり一番思うのは、今年は戦後70年というけれど、多くの識者が指摘するように戦前回帰のような空気が感じられます。戦前の日本だって戦争なんてする気はなかった人がほとんどのはずです。政治家も陸軍の中にすら戦争を目論んでいたのは少数だったと思います。それでもちょっとしたことから戦争は起きてしまうのです。第一次世界大戦が良い例です。そうならないために法律とか憲法とかいろいろな歯止めをかけているわけですから、それを一つ一つ無効化しようとしている現在の政治は、やはり戦前回帰と呼ばれても仕方ないのではないかと思います。戦後70年が新たな戦前元年にならないことを祈ります。

またドイツの戦後の歩みと比較されることも多い日本の戦後ですが、そのドイツですら、昨今はネオ・ナチがまた勢力をつけてきているわけで、『過去の克服』はそう簡単なことではない、常に心を引き締めてかからないと、いつなんどき復活してくるかわからない、油断のならない過去、決して活動をやめることのない活火山みたいなものなのではないでしょうか?

談話では「私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません。」とも言ってますね。これなど、「あんたら愚かな政治家が、バカな発言を繰り返すから、いつまでたっても謝罪を要求されているんじゃないの?」と言いたくなりましたが、いかがでしょう?