池袋のリブロの想い出

今日で池袋のリブロが閉店なんですよね。暑い中、業界関係者がたくさんお店を訪れているのではないでしょうか? もちろんリブロを長年利用してきたお客さんも。

ところで、リブロが特徴ある書店として一世を風靡したということは、あたしの場合、この仕事に入ってから知りました。いわゆる「今泉棚」と称される人文書コーナーも、社会人になって以降に知ったことです。

言うまでもなく、あたしが非常に若くて、リアルタイムでそういう時代のリブロを知らなかったと言いたいのではありません。むしろ逆です。

あたしが大学に入学したのが1986年4月ですから、まさしくリブロが輝いていた時代(←決して、いまのリブロが輝いていないと言うつもりはありません)にあたります。そしてその当時のあたしは朝霞台にある東洋大学の朝霞校舎(当時は文系の1年生、2年生が利用)に通うため毎日池袋を通っていたのです。ですから、その当時のリブロにどっぷりつかることはできたはずなのです。にもかかわらず、当時の通学の、行きはともかく、帰りにリブロに立ち寄ったという記憶はありません。帰りにリブロに寄っていこう、という感覚すら持ち合わせていなかったというのが正直なところです。

いま振り返ってみて、なんでリブロに寄ることがなかったのか、自分でもよくわかりませんが、あえて理由を考えてみると、その当時流行していたという「ニューアカ」などにまるで興味を持っていなかったから、というのが一つの理由ではないかと思います。リブロが話題になるときに(当時のあたしはほとんど蚊帳の外にいたので付け焼き刃的な知識ですが)、しばしばニューアカなどの潮流が言及されます。ですから、そういうものに関心のあった人たちにとって池袋のリブロは聖地だったのでしょうし、日参が欠かせない書店だったのか知れません。

しかし、やはりいま考えてみると、そういうところに興味があった人というのもごくごく一部の人でしかなく、もちろん大学のレジャーランド化が言われて久しい当時、あたしの周囲に「帰りにリブロに寄っていこう」と声をかけてくるクラスメートは皆無で、一部の人にとっての聖地でしかなかったのだろうなあ、と思います。とはいえ、そういう状況、「諸学の基礎は哲学にあり」をモットーにしている東洋大学生としては寂しい現実でもあります。本来、哲学を学ぶ東洋大学生であれば、もっと関心を持ち、リブロに行っていてもよさそうなものを。いや、あたしが知らないだけで、リブロに日参していた学生はたくさんいたのでしょうね。なにせ朝霞台から20分ほどで池袋に着けたわけですから。

じゃあ、お前は勉強もせず、書店にも行かない、典型的な遊んでる大学生だったのかと問われれば、否と答えます。当時のあたしは中国哲学を専攻していたので、日参とまでは言わなくとも週参、あるいは月に二度か三度通っていたのが神保町にある中国書籍専門店、東方書店内山書店亜東書店、中華書店、燎原書店などでした。その他、漢籍の古書店も神保町には揃っていて、そういうところへ行っては中国から輸入された原書などを買っていたのです。失礼な言い方ですが、そういう本はたとえ当時のリブロ池袋本店でも置いていなかったでしょう。

つまり、あたしの場合、既に自分で自分の買うべき本がわかっていて、それがどこで手に入るのかも知っていて、そこへ行っていたというわけであり、それはそれで正しいのだと思います。ただ、そうは言っても、やはりもう少し広くアンテナを張って、専門以外の分野にも興味を持ち、リブロにも立ち寄ればよかったかなとは思います。

ちなみに、その当時のあたしは新宿の紀伊國屋書店にもほとんど行っていませんでした。むしろ神保町に行くことが多かったので、新刊書店としては三省堂書店の神保町本店(当時はの呼称は神田本店)や東京堂書店、書泉グランデに行くことが多く、とりあえずはこのくらいを押さえておけば十分でした。

結局、タイトルに「池袋のリブロの想い出」と書きましたが、「想い出が全くない」というのがあたしの結論です。ですから、出版社の営業として池袋のリブロが店を閉めることに対する感慨はいろいろありますが、青春の一ページ的な、感傷的な意味での感慨はまるでないのです。