少し前に、このところの書店のスタイルについて書きました。
最近全国的に増えている蔦屋とか、有隣堂が新宿の小田急百貨店に作ったストーリーストーリーとか、そのはしりは京都の恵文社なんじゃないかと思いますが、とにかくこの手の書店が増えています。
時間を潰すための場所としては愉しいし、「へえー、こんな本が出ていたんだ」という発見もありますが、こういう書店を一括りに言ってしまうと「提案型」の書店と言うようです。何を提案するのかと言えば、各店にコンセプトなどはあるのでしょうが、これも平たく言ってしまえば「生活スタイル」「ライフスタイル」です。
「こんな雑貨や家具、観葉植物に囲まれて、そこでくつろぐあ・た・し。そんなとき、手にするのはこんな本がオススメ」という感じなのでしょうか?
それ自体を否定するつもりはないのですが、なにか居心地の悪さを感じるのも事実です。それについて時々考えています。
たぶん、日常的に本を読む人、本を読む習慣のある人、本屋によく行く人は、こんな風に提案されなくても自分の欲しい本、読みたい本がわかっているわけで、そういう人には探している本が見つけやすい書店が「よい本屋」なのであって、別にお店や、ましてやコンシェルジュに提案なんてしてもらう必要なんてありません。だから、こういう提案型の書店、セレクトショップ的な書店にはあまり足を向けないのかも知れません。
でも、世の中、本を読むと言える人の方が極端に少ないのが、たぶん現実。そもそも何を探しているかもわかっていない人には、のけぞりそうなほど高い高い書架が図書館のように聳え、整然と本が数え切れないほど並んでいる(ジュンク堂のような)書店は、足を踏み入れただけでめまいを起こしてしまうのかも知れません。
そうではなく、カワイイ雑貨を見ながら、ふとそのそばに置いてあった、可愛らしい装丁の本を手に取って、パラパラとめくってみる。文字も少ないし(←これ、重要)、薄いし(←これも重要)、すぐ読めそうだから買ってみようかな、そんな購書スタイルが一般的になっているのかもしれません。だから、そういう人には提案型の書店が受けるのだと思います。
薄っぺらいと言われるかも知れませんが、そこまでは理解しているのですが、それでもまだ居心地の悪さ、なんとなくしっくりこない気分を感じるのは何故でしょう? やっぱり提案されること、それ自体なのかな、と思うのです。
だって、音楽を聴く、テレビを視る、という行為に比べ、娯楽としての読書にはこれらとは比較にならないくらい、能動的なかかわりが必要になるじゃないですか? 音楽は「聴きながら」別のことができます。テレビも「視ながら」他のことができますし、多くの人はしていると思います。でも、読書はどうでしょう? ながら読書って出来るものなのでしょうか?
読書は「提案された」なんていう受け身で始めても身につかない、いや、そもそも読み始められないものだと思います。それなりの覚悟と体調、これは肉体的にも精神的にもですが、そういったものが必要になります。なおかつ多少の知識も必要ですが、これは読書体験が増えれば自然と積み重なってくるものです。
そんな風に、能動的に取り組まなければいけない読書と、提案されるという受動的な空間が、あたしには居心地の悪さの元凶なのではないか、そんな風に現時点では考えています。