このところ神社仏閣で油のようなものがまかれるという事件が続いていますが、早いところ犯人を捕まえて欲しいものです。日本全国あれだけ広範囲にわたっているので個人的には単独犯というよりは模倣犯がいるのではないかなと思っているのですが、警察の見立てはどうなのでしょう?
そんな中、東京の板橋区のお寺の仁王像に黒い液体(油?)がかけられたというニュースが入ってきて住職さんが「(犯人には)罰が当たる」とおっしゃっているそうな……
ところで、この「罰が当たる」という表現、いまの若い子は使わない言葉なのでしょうか? あるいは既に知らない言葉になっていたりして? 「罰当たり」なんて言い方もしますが、どうなのでしょう。
あたしなどは、よくではないですが、比較的使う方世代なのだと思います。いたずらをしたり、親に叱られるようなことをしたときには決まって「そんなことをしているといまに罰が当たるぞ」と言われたものです。なので、比較的馴染みのある言葉ではあります。
しかし、あたしの場合、他人に対して、心の中でよくつぶやいていました。
小中学生のころですから学生時代という言い方が正しいのかどうかわかりませんが、そんなころ、何度も書いているようにあたしはどちらかと言えばいじめられっ子、嫌われっ子でした。クラスメートとの間で嫌なことがあると、いつも「お前なんか罰が当たるぞ」と心の中でつぶやいていたものです。
そんなクラスメートが風邪を引いたとか、ケガをしたとか、重い病気になったと聞いても、あたしは「ざまあみろ、だから罰が当たったんだ」と心の中で思うことで溜飲を下げていたのです。もし仮に、クラスメートとの間にいざこざがあった日の放課後、帰宅途中にそのクラスメートが交通事故にでも遭って死んでしまったとしても、あたしの気持ちとしては「死んじゃうなら、もっと仲良くしておけばよかった」とか、「仲直りできなかった」といった後悔の念に駆られることはなく、やはりそういう時でも「ざまあみろ」というルサンチマンのかたまりのような心持ちでした。
もちろん、死んでしまったクラスメートなど当時いたわけではありませんので、あくまであたしの心の中、頭の中での話ですが。
つまり罰が当たるというのは、あたしにとっては、悪いこと、いけないことをした自分に下されるものではなく、あたしに対して嫌な態度を取った相手に下されるものというのが第一の意味なのです。こんな考え方だから他人とうまくコミュニケーションが取れないのか、コミュニケーションがうまく取れないからこんな考え方になってしまったのか……