巣鴨プリズン

関東以外ではあまりニュースにもなっていないのかも知れませんが、東京は池袋にあるサンシャイン60,その展望台がリニューアルのため本日で閉鎖になるそうです。

「あっ、そうですか」

という程度の感想しか持たない方も多いと思いますが、、サンシャイン60ができた当時、その60という名称からもわかるとおり、日本一の高さを誇るビルであり、その展望台は日本一の眺めと言われたものでした。「言われたものでした」なんて書き方をするのは、あたしがここの展望台に行ったことがないからで、その眺望はテレビニュースなどの映像でしか見たことがありません。東京に住んでいるというのに……

ちなみに、東京タワーも上ったことないですし、スカイツリーも同様、東京都庁にしても、すべて上ったことないです。別に高所恐怖症というわけではありません。その証拠に上海の東方明珠塔には上ったことがありますので。

さて、サンシャインの展望台が閉鎖と聞いても別に感傷的になるわけではありません。いま書いたように、特別な想い出があるわけではありませんから。ただ、サンシャイン60というのは、あたしにはちょっと思い出深い場所であります。どういうことかといいますと……

サンシャイン60が、その昔、巣鴨プリズンという刑務所だったということは後から知りましたが、それでも比較的早い時期に知ったと記憶しています。東京裁判だとかA級戦犯だとか、そういった単語とは関係なく、あそこは前は刑務所があったところだったんだよ、という感じで教えられたような記憶です。そんな風に親から教えられたのには、あたしが「あそこって、サンシャインができる前は何だったの?」という質問をしたからだと思います。

そんな親とのやりとりの中で思い出すのです、あたしが幼稚園児だったころのことを。

あたしが幼稚園のころ、小さなアパートですが、いまの淑徳巣鴨中学・高校大正大学のそばに住んでいました。いまや大人気の巣鴨の地蔵通りです。そこから池袋駅の南の方にあった双葉幼稚園に通っていました。双葉幼稚園は今はなく、場所も正確には覚えていませんが、池袋駅東口、明治通りを南に進み、ジュンク堂書店も越えてもう少し行ったところを左に入ったあたりにあった幼稚園です。地図を広げていただければわかるように、かなりの通園距離です。ですのでバスでしたが、幼稚園のバスが何ルートかあって、そのうちの一つが淑徳巣鴨の前あたりに乗り場を持っていましたので、普段はそれで通園していました。

はっきりとは覚えていませんが、多少は子供を乗せるために寄り道はしていたと思いますが、あたしが使っていた送迎バスのルートは、だいたい明治通りに沿ったものだったと思います。片道どれくらいかかったか覚えていませんが、小さいころは乗り物酔いがひどかったあたしでもそれなりに我慢できた乗車時間だったと思います。

双葉幼稚園は、放課後に課外活動がいくつかあり、あたしもそれに二つ三つ入っていましたが、そういった活動に参加するといつもより帰る時間が遅くなり、送迎バスも通常より減ってしまいました。ですので、課外活動がある日は、通常の数ルート分の園児をまとめて帰路に着いたのですが、これがあたしには苦痛でした。家の近所のバス停に着くのにいつもの倍以上の時間がかかったからです。課外活動は愉しかったと思いますが、その後の帰りのバスが憂鬱で憂鬱でたまりませんでした。たぶん何度も気持ち悪くなっていたと思います。だから乗ったらすぐに目をつぶって寝よう、寝ようとしていた記憶があります。

でも、そう簡単に寝られるわけもなく、そうっと薄目を開いて窓の外を見ることもありました。ルートが異なるので普段とは見慣れない車窓からの景色です。毎週のように課外活動があったのに、この時の帰りのバスはいつも「どこを走っているのだろう?」という気がしたものです。そんな憂鬱な、課外活動後の帰りのバスの記憶で鮮明に残っているのが、延々と続くフェンスでした。当時はどこを走っているのかもわからず、とにかくずーっとフェンスが続く道を走っていたとしか覚えていません。いったいこのフェンスの向こうは何だろう、という思いをいつも抱いていました。フェンスの隙間からは広い空き地が見えるだけでした。

そんな幼稚園時代が終わって小学校に上がるとき、わが家は杉並に引っ越しました。池袋や巣鴨界隈からはおさらばです。でも親戚が住んでいたので、その後もしばしば池袋には来ていました。そして1978年のサンシャイン60開業です。あたしは小学校の高学年になっていましたが、「でっかいビルが池袋に出来たなあ」と感じたのを覚えています。もちろん展望台には上っていませんが、サンシャインシティには何度も行きました。

で、話が戻って「ここは何だったの?」という会話です。そうです。あたしが憂鬱なバスの中からぼんやり眺めていたフェンスというのがサンシャインシティの建っている場所だったのです。巣鴨プリズンが1970年までですから、あたしがフェンスを眺めていたころは既に刑務所ではなく、サンシャイン建設に向けて整地をしていた段階だったのだと思われます。「あそこに、これが建ったのか」、サンシャインの前身を聞き、幼き日の自分の記憶と結びついたとき、そんな風に思いました。そしてサンシャインと聞くと、憂鬱だったバスの中、必死に吐き気を押さえながら家に着くのを待ちわびたバスの中を思い出すのです。

早く家に帰りたい、それは巣鴨プリズンに捕らわれていた囚人も同じ気持ちだったのでしょうか?