TBS系「報道特集」にジョン・ダワー氏が出ていました。キャスターがアメリカでロング・インタビューしたもののダイジェスト放送のようでした。なかなか興味深く、考えさせる内容でした。
ジョン・ダワーと言ったら、これ、『敗北を抱きしめて 上』『敗北を抱きしめて 下』でしょう。あたしは未読ですが、今宵のインタビューを聞いていて、やっぱり読んでみようかなと思いました。たぶん、あたしのようにこの番組を見て「改めて読んでみようと思った」とか、「こんな本が出ていたんだ。初めて知った」とか、そんな感想を抱いた人も多いのではないでしょうか? 「報道特集」の視聴率がどのくらいあるのか知りませんが、こういった番組を見ている人であれば、この機会に『敗北を抱きしめて』に手を伸ばそう考える人もそれなりに多いのではないでしょうか?
となると、あたしの勤務先の『廃墟の零年1945』も再び売り上げが上がってくるのではないでしょうか? そんな期待を抱きたくなりますし、実際そうなって欲しいですし、そうなるだけの内容を持った本であると自負しております。なにせ、オビには「『敗北を抱きしめて』の世界版」なんて書いてありますし……(汗)
しかし、この手の戦後70年の議論を見たり聞いたりしていて素朴に思う疑問がいくつかあります。
まず、時代に合わせて憲法の内容も見直すべきだ、という原則論は賛成しますし、環境権とか、現憲法の成立・施行時には想定もされていなかったような部分を補わなければならない、という意見にも異存はありません。ただ、憲法って原則中の原則を示すものであって、そんなに細かなことまで書いてなければいけないものでしょうか? それに象徴でもある9条を改正するというのは、海外へのアピールという面から考えて、プラスよりもマイナス面の方が大きいのではないか、という気がします。
改憲論議で言えば、自主憲法にこだわる人の意見も理解に苦しみます。憲法ってその内容を云々するのはよいとしても、誰が作ったかなんてどうでもよいのではないでしょうか? 少なくとも、どこの馬の骨が作ったというわけではないのですし、世界に誇れるすばらしい内容なのに、自分たちが作ったものでないから変えるべき、というのは説得力を感じません。
あと、いまの自民党は戦争がしたくてしたくてたまらないみたいに見えますが、この話は湾岸戦争のころから聞こえてきたように思います。そして、そのころからやはり言われるようになったと思えるのが「普通の国」という単語です。曰く、日本も普通の国になるべき、と。「報道特集」でダワー氏も言っていましたが、この「普通の国」っていったいどんな国なのか、その定義を聞いたことがありません。少なくとも自民党の人たちから、納得のいくような「普通の国」の定義を説明された覚えはないと思います。
「普通」と言えば、いまの状態が普通ではなく、それはよくないことであって、一刻も早く「普通」にならないといけない、という錯覚を生むのではないでしょうか? 「普通の国」という言い回しを考えた人は実に頭がよいというか、悪知恵が働くというか、底意地が悪いというか、ずる賢いというか、そんな人だと思います。
とりあえず、ジョン・ダワーの本がまた売れるのではないでしょうか? それでなくとも今年は戦後70年なので売れそうな気配がありますが……