死んでいたかも知れない

昨日、Facebookに

願わくは
花のもとにて
春死なむ
その如月の望月の頃

なんて投稿をしてしまいましたが、別に死のうなんて思っているわけでもなければ、死にたいと思っているわけでもありません。この句が好き、人間いつかは死ぬわけだけど、こんな死に方ができたら理想だな、とは思いますが、まだまだ遠い先の話のことです。

もちろん、エイプリルフール・ネタというのでもありません。昨今、SNSに「これから死にます」的な書き込みをする人も増えているようですが、あたしはそんなことをするつもりはありません。ただ、もしできるのであれば「今し方死にました」という書き込みをしてみたいとは思います。

死んだら書けないでしょう? うーん、そうですね。でもWordPressには投稿予約という機能がありますので、やってやれなくもないですが……

ただ死と言えば、2月の初めに意識を失って倒れてケガをして以来、いつなんどき死ぬかも知れないという気持ちは少なからず芽生えました。その後、3月には関西ツアーに行きましたが、行く先々の書店で「もしあの時打ち所が悪くて死んでいたら、今回、全然知らない人が関西に来ていたかも知れないね」なんて話をしていました。「あれ、ナンシー、どうしたの? どうして来ないの?」と聞かれた関西新担当が、「あっ、ナンシーは先日事故で死にました」なんて、しらっと報告するというのもちょっと面白いかななどと思ったりします。

死を冗談にするのは不謹慎ですが、少なくともあたしは自分から死のうとは思いません。別に宗教的な理由とかではなく、人生を全うできずに途中で命を落とすというのは嫌だなと、単純に思うだけです。

それでも人生で死にたいと思ったこと、生きているのが嫌になったことは一度だけありまして、それは小学生のころ、今ほど陰湿ではないにせよ、クラスで仲間はずれというか、嫌われ者になっていて、もちろん友達と呼べるようなクラスメイトもいなくて、そんな学校生活が嫌になって、「もうどうでもいいや」と思い詰めたことがありました。後にも先にもその時が死にたいと思った唯一の時です。

いや、たぶん死というものがどういうものかよくわかっていなかったと思うので、死にたいと言うよりは、生きているのが嫌になったと言った方が正確かもしれません。ただ、死にたいとは思わなくなりましたが、その時以来、世の中のことや他人に対して「どうでもいいや」と思うようになったのは、今に至るも治りません。