カバーとオビの関係?

「週刊文春」とか「女性セブン」とか、そういった雑誌は真ん中をホチキスで綴じたかたちのものがほとんどです。「少年ジャンプ」とか「別冊マーガレット」といったコミック誌は、やはり大きなホチキスでガシャッと綴じていますよね。これらはどちらもカバーなんてなく、ましてや函に入っているわけでもありません。しかし単行本ですと、ほぼ必ずカバーとオビが付いています。カバーを取り外してしまうと、意外とあっさりとした表紙だったりすることも多いものです。昔の図書館の蔵書はカバーや箱を取った状態になっていることが多く、書店で売っているカバーの付いた本と見た目がかなり異なるので驚いたものです。

このカバーとオビというのは日本独特のものなのでしょうか? 洋書はほとんどがペーパーバックと呼ばれるかたちで、カバーなんて付いていない、というのが常識のような感覚があります。日本の書籍は、表紙があっさりしているぶん、カバーはかなり凝ったものになっていて、これぞデザイナー、装丁家の腕の見せどころ、という感じですね。

なんでカバーとオビが日本独特なのか、詳しいことは知りません。書店から返品されてきた本も、カバーを新しいものに取り替えればまた使える、というのが大きな理由だと思います。海外は、すべてとは言いませんが、本は買い切りが普通で出版社に返品されてくるというのは乱丁本、落丁本などくらい。だから返品されてきた本のカバーを掛け替えて再び出荷するなんてことはない。だからカバーなんて必要ない、ということなのではないかと個人的には想像しています。

まあ、こういう流通の仕組みはおくとして、とにかく日本の書籍のカバーは独自の発達を遂げたという気がします。もちろん、海外でも自分で好きな装丁に仕立て直すという伝統がありますが、これはカバーと言うよりは表紙そのものの話ですから、やはりちょっと異なりますよね。

話がだいぶ横道に逸れたような気がしますが、ここで話題にしたいのはカバーとオビです。最近ちょっと気になる現象があります。それは新書に目立つのですが、オビがカバーと見紛うほど大きい本が目に付くようになったのです。

わかっていると思いますが、オビとはカバーの更に外側にかかっている、宣伝惹句やその本の特徴、あるいは識者の推薦コメントなどを載せた、簡単に言ってしまえば宣伝チラシみたいなものです。だいたい本の下、4分の1から3分の1くらいの太さ(高さ)で作られています。本との位置関係で言えば、オビと言うよりもズボンとか袴と言った方がよいのではないかと思いますが、伝統的にオビと呼ばれています。帯ですよね。

カバーとオビは装丁家が一緒にデザインするときもありますが、装丁家はカバーだけをデザインし、オビは出版社で作るということもあるのではないかと思いますが、オビが太すぎるとせっかくのカバーがほとんど隠れてしまい、素敵なイラストなどが見えない、という本もしばしば見かけます。もちろん、カバーとオビが一体となってデザインされているものも多いので、それなりのバランスは取れている書籍がほとんどですが。

そんなカバーとオビの関係なのですが、大きすぎるオビに気づいたのは『だから日本はズレている』を見たときでした。

上の写真でもわかるように新潮新書の一冊です。新潮新書ですからカバーは濃いベージュというのでしょうか、薄い茶色というのでしょうか、とにかくそんな地色に著者名と書名が印刷されている殺風景なものです。これではライバルひしめく新書の世界では勝てませんから上のような著者のカラー写真をあしらったオビが巻かれています。このオビは本全体のほぼ半分の高さに達していますよね。かつてであれば十分「太い、大きい」オビと呼んでおかしくないものです。

ところがこの本が売れに売れ出したころ、この写真がほぼ全面を覆うような本を見つけたのです。あたしがこの本を持っていないのでどんな感じかお目にかけられませんが、同じく新潮新書の『「自分」の壁』でも同じようなものを見かけ、こちらはネットに画像があったのでそちらをご紹介します。

まずはデフォルトのオビです。これも一昔前なら大きいと呼べる、ほぼ半分のオビです。ところがしばらくするとこちらのサイトに掲載されている写真のように全面オビになっています。このほぼカバーのようなオビを取り外すと、本来の新潮新書のカバーである、ベージュのような茶色のようなカバーが現われます。見た目にはカバーが二枚かかっているようなものです。

本が売れたとき、帯を換えて更に売り上げを伸ばすというのは出版社がよくやる手です。あたしの勤務先もやります。でも、それは「○○万部突破」といったものだったり、新聞書評のコメントを引用したり、そういうオビへの変更であって、オビの大きさをまるっきり変えてしまうなんてことは、かつてはなかったことだと思います。

ところで、ここで一つ問題があります。読者には関係ないのですが書店現場、流通現場でかなり重要なことです。

カバーには表(表1)にタイトルや惹句などが書いてあったり、イラストなどがあしらわれたりしていますが、裏(表4)には定価が書かれています。誰もが本を手に取って気に入ったとき裏返して値段を確認しますよね? カバーの裏には値段が書いてあり、その値段の近くにはISBNコードとバーコードが印刷されています。書店現場や流通現場ではこのバーコードを機械で読み取って管理しています。本屋で本を買ったときレジでピッと読み取っていますよね。あれはこのバーコードを読み取っているのです。

ところで、それはカバーのことであって、オビには普通は値段とかバーコードなんて書いてありません。試しに手近の本を見てみてください。値段は書いてあるかもしれませんが、バーコードが印刷されているオビなんてほとんどないはずです。そりゃそうでしょう。カバーに印刷されているのですから、オビにまで付ける必要はありません。

しかし、上に述べたような全面オビになったらどうでしょう? 本来カバーに印刷されていた定価やISBNコード、そしてバーコードが全目オビで隠れてしまいます。そうなると流通現場や書店のレジでは毎回オビをずらしてカバーのバーコードを読み取るという、実に面倒な作業になります。そこで、新潮新書の全面オビには、表1こそ写真を全面に使ったものになっていますが、表4は本来のカバーとほとんど同じようになっているのです。定価とかバーコードが印刷されているのです。これならバーコードの読み取りも簡単にできます。袖には著者略歴とか入っていて、もうオビではなく完全なカバーです。

だったら、カバーを二枚かけるようなことはしないで、その全面オビとやらをカバーにしちゃえばいいんじゃないの(?)と思いますが、なぜかそうはなっていませんね。どうしてなのでしょう? たぶんカバーを換えるというのは流通上面倒な事情があるのではないかと思います。帯はいくら変わってもあくまで付属物なので構わないけれど、カバーは本の一部なので、それが変わってしまうと別の本として扱わざる得なくなる、そうすると管理など面倒なことばかりが生じてします。だったら「あくまでオビです」というていで行った方が都合がよい、ということなのではないか、そんな風に想像しています。