対人的なスペース?

河出文庫の『異性』を読んでいます。

角田さんと穂村さんのやりとり、面白いです。でも、参考になるのかと問われると、うーん、あたしみたいに交際経験のない人にはわからないことも多いです。なんだかんだ言っても、角田さんも穂村さんもこれまでに何回か恋愛をして、恋人もでき、お付き合いもしてきている二人です。だからこそわかる、言えるという部分はあるにせよ、あたしのような未経験者には、結局「勝者の語り」にしか聞こえないところも多々あります。

そんな本書の中に「対人的なスペース」という言葉が出てきます。「モテ要素であるところのスペース」なんて言われています。あるいは「異性進入用のスペース」とも言っています。つまりは内面的な余裕のようなもので、これが他人から見えるから、そこに他人が入り込んでくるということらしいです。で、モテない人はこのスペースが小さいとか無いとか、そういうことになっているみたいです。

あたしの場合、たぶん他人を寄せ付けないところがあるので、あたし自身にはこのスペースはほとんどないと思います。だから入ってくる人なんていないでしょう。いや、スペースがそもそも無いから入れないのですよね。また逆に、あたしが誰かのスペースを見つけることがあるか、あったかというと、これもまたわかりません。そんなスペースを他人が持っているなんて考えたこともないですから。

あえて言えば、もしそういうスペースを見つけられたとしても、あたしには入る資格がないと判断するでしょう。この人のスペースには入れるのはあたし以外の誰かだろう、あたしを入れてくれるスペースを持っている人なんてこの世にはいないだろう、そう思います。だって、あたし自身があたしを入れたいと思いませんから。もちろん、そんなスペースを見たことも入ったこともないあたしが思っていることですけど……

あと、本書には「主電源」という言葉も出てきます。これもモテの話題に出てくるタームで、主電源がオフになっている人はいくら格好つけてもダメなんだそうです。まずは自分の主電源をオンにしろ、というのが穂村さんのご高説のようです。ただ、ここであたしが穂村さんや角田さんに言いたいのは、「その主電源とやら、本当に誰にでもあるのですか?」ということ。

あたしが思うに、そもそもこの主電源が付いていない人ってのもいると思うのです。生まれつき付いていない人、持っていない人は、そもそもオン・オフ以前の問題ではないでしょうか? 穂村さんも角田さんもその可能性については何も言及していませんが、もしかして誰にでも付いているもの、誰でも持っているものと思っているのでしょうか? それはあまりにも脳天気ではないかと、あたしなどは思ってしまうのです。