20年前のこと

阪神大震災、いや、阪神淡路大事震災と呼ぶべきなのでしょうか? 当時は呼称についても論議がありました。どの地震や災害でもそうですが、呼称一つで国からの復興予算とか、その他もろもろ差がついてしまうそうです。この時も「淡路」が入るか入らないかで、淡路島の被災に対する国の対応が変わるのだとか聞きました。なんともくだらない話ですが……

さて、阪神大震災から今日で20年です。先日、成人を迎えた芸能人のニュースなどが流れていましたが、彼ら、彼女らが生まれた年にあの震災は起きた、と言ってよいのでしょう、事実上。他の地区はともかく、阪神地区の成人については、「あの震災がなかったら、この式典に参列していたはずの人」がこの20年、毎年ある程度の人数はいるんですよね。不思議な感覚です。

あの震災のころ、あたしはとうに社会人でした。白水社に入社して、伊地智先生の『中国語辞典』の担当をしていました。毎月のように大阪枚方市の先生のご自宅へ伺って校正と原稿整理を行なっていて、お手伝いいただいている先生方もほぼ全員が関西在住の方でした。

いつものようにラジオが付いているわが家でした、その朝は神戸で大きな地震が起きた模様という第一報が入ってきて、ただ、映像もなければ朝も早くて情報がなかなか入ってこず、東京では「まあ、大きな地震と言っても、震度4とか、そんなもんでしょ」くらいの気分でしたが。

ところが時間がたつにつれ、神戸がとんでもないことになっているというのが伝わってきました。テレビも他のニュースを飛ばして神戸からの中継、たぶんヘリからの空撮だったと思いますが、そういう映像に切り替わりました。とはいえ、東京はなんともないですから、まずは出社です。中途半端な情報で出社したあたしでしたが、出社後に入ってくる情報では、それこそあたしの感覚では古今未曾有の震災という感じで、伊地智先生をはじめとした先生方の安否が気遣われました。

伊地智先生は、上にも書いたように枚方という大阪の東の方ですので、それだけ神戸からも離れている分ほとんど被害はなかったようです。関西への電話が繋がりにくい中、電話が繋がったときはホッとしました。その他、大阪や京都に住んでいる先生方はほぼ深刻な被害もなく連絡が取れましたが、何人かの神戸の先生方については、結局その日のうちには連絡が付かなかった方もいらっしゃいました。が、幸いにも全員無事が確認でき、ホッと胸を撫で下ろしました。

ところで、毎月のように大阪へ行っていたのとは別に、年に二回くらい、その先生方に集まっていただいて辞典の編集会議も開いていました。実は年が明けたので1月にその会議を開く予定でしたが、こんな状況で開けるのか、いったん中止、あるいは延期しなければと思っていました。しかし、伊地智先生に相談したところ、「集まれる人だけでやりましょう」とのことで、先生方に連絡を出し、震災から2週間後に大阪で、確かに梅田に近いところだったと思いますが、そこで会議がありました。神戸からも編者の先生方駆けつけてくれましたが、曰く、あの瓦礫の山の神戸から梅田に来てみたら、いつもと変わらない週末の光景にビックリした、とのこと。

そうなんです。あの時、梅田のデパートはさしたる被害もなく、あたしが大阪へ行った震災2週間後の土日は普段通りの営業をしていたのです。電車で数十分も行けばついてしまう三宮があんな状況になっているというのに、梅田とのこのギャップはすさまじいものです。ただし、神戸の先生方は、あの神戸の街を見ている気が滅入るけど、普段通りの梅田の街を見ると、気が紛れると話していました。伊地智先生もそういった効果を考えて、あえてあの時期に会議を開いたのではなかったでしょうか。

とまあ、あたしにとって阪神大震災は体験はしていないのですが、非常に身近な災害として記憶しています。ただ、瓦礫の山となった神戸に、あたしは一度も足を踏み入れていません。踏み入れられなかった、といった殊勝な気持ちではなく、単に機会を作れなかったというだけなのですが、神戸の先生方は、確かに交通手段など厳しいけれど、あの光景は見ておいた方がよかっただろう、と語ってくれました。その機会を失してしまったのが、やはり残念といっては不謹慎ですが、多少の悔やむ気持ちは抱き続けています。