文庫化のジレンマ

文庫になるのが早くなった、とはこの数年よく聞かれるセリフです。単行本が年月を経て文庫本になるというのは別に珍しいことではないですが、そのサイクルが確かにこの数年、いや十年くらいでしょうか、とても早くなったという気がします。

どのくらい早くなったのか、別に統計を取ったわけではありませんので、確かなことは言えません。それでも、以前なら数年から5年、10年は待たないと文庫にはならなかったと思われるのですが、最近は単行本が出て一年後には文庫になっている、という作品も珍しくはありません。一年後と言えば、本によっては、まだまだ単行本が売れているだろうに、もう文庫にしちゃうのですか、という気がします。

確かに、文庫本の方が安いし、たくさん作るから多くの書店に行き渡るし、それだけ人の目に触れる機会が多くなる、と一見いいこと尽くめのようですが、現実にはそんな甘いものではありません。いま「安くてたくさん作る」と書きましたが、実を言えば、安くするためにたくさん作っているのです。先に安さありきですから、実際にどれだけ売れるかに基づいて部数を決めているわけではありません。この値段に抑えるにはこのくらいの部数を作らないとならない、という計算が働いているわけです。ただ、単行本の時に売れなかった本が、安い文庫になったからといって、そうそうたくさん売れるようになるとは限りません。かなりリスキーな商売と言えるでしょう。

もちろん、安い文庫になったことによって「買おう」と思う読者が増える可能性はありますし、実際文庫になったから買った、というお客様は多いはずです。(高くても、買うべき本、読みたい本は買う、というのはかなり稀なお客様です。)また単行本よりは多くの書店に並ぶので、人の目につく可能性も格段に高くなります。単行本の時に走らなくて、文庫になって初めて「こんな本が出ていたのか」と気づかされることは多いはずです。ですから、一概にリスキーとは言えない面はあります。(単行本の時に気づかれないというのは、宣伝方法にも問題があるのかもしれません。)

ただし、個人的には「どうしてかなあ?」と思う時もあるのです。例えば先日こんな本を買いました。

チャイナ・ナイン』です。これはこのたび文庫になって[完全版]と付いたように、単行本の時の作品に加筆があります。こういう、文庫版になった時に、その時の情勢を加味して加筆がある場合、単行本を持っていたとしても、あえて文庫本も買うことはままあります、あたしの場合。

ただ、それはさておき、この本が文庫になってすぐ、この本の続編とでも言うべき『チャイナ・セブン』が刊行になりました。もちろんこちらは単行本です。

これが出版社の営業としては嫌なんです。出版社の営業としては、こういう関連する本は書店店頭では並べて置いてもらいたいと思うものです。もちろんこの二点を並べて置いているお店も多々あります。でも、文庫本と単行本ですと、置かれる場所が異なり、書店での棚管理も変わってきて、一緒に並べるのを嫌がる書店が多いのも事実です。どっちを読んだとしても、もう一方も読みたくなると思われるのに、その両者が並んでいない、そのもどかしさ、わかっていただけるでしょうか?

もちろん、『チャイナ・セブン』を買って読む人の大半は既に『チャイナ・ナイン』は読んでいるはずだから、隣に並んでいなくてもそれほど実害は出ないよ、という意見もあるでしょう。それは確かにその通りですが、あたしのように、今回の文庫化で改めて購入することにした人間だって少なからず要ると思うのです。特に今回のように加筆があったのですから。

で、たまたま目に付いたのは、こんどはまるでジャンルが異なりますが、『変愛小説集』です。これは続編にあたる『変愛小説集 日本作家編』が出るタイミングで文庫になりました。単行本「日本作家編」の刊行が9月上旬で、前著の文庫化が10月中旬ですから若干のインターバルはありますが、「これを機に」というのは明らかです。

 

この両者も、一緒に並んでいるところもありますが、文庫と単行本で別々のところに並んでいる場合が多々あるのです。広い書店であればかなり離れた場所の可能性もありますし、多層階の書店であれば階が異なることもあるでしょう。

ちなみに文庫になった前著の正しい続編は『変愛小説集2』で、これはまだ単行本のままです。

こういう文庫化、果たして良いのか悪いのか、よくわかりません。それぞれメリット、デメリットがあるので……。それでも出版社の営業としては、何か腑に落ちないと言いますか、もどかしいものを感じるのです。