光文社古典新訳文庫の『羊飼いの指輪』の「訳者あとがき」がなかなか興味深いです。
全体としては、《ファンタジー》を子供たちの教育に活用するというイタリアの取り組みを紹介しています。そういう活動は、日本とイタリアの風土や伝統、行政と学校と家庭との関わり合い方の違いなど、そのままでは日本に導入できない、導入しても失敗するだけという懸念もあるでしょうが、非常に興味深いですし、実験的にやってみる価値はあるのではないかと思われます。もちろん、既に似たような取り組みを実践している学校や地区はあるのかもしれませんが。
そんな「訳者あとがき」の中で、日本での取り組みとして訳者に批判されているのが「朝読」です。
「朝読」は、ご存じのとおり、子どもたちを読書好きにしようというもっともらしい名目を掲げ、二〇年ほど前から全国の学校にひろがった運動で、朝の決められた時間にみんなでいっせいに本を読む「読書タイム」を設けるというものだ。「朝読」を実施するに当たっての教師向けマニュアルに、こんな記述がある。「九時三五分に『朝の読書』を開始する。九時三五分のチャイムと同時に『読書を始めます』と、始まりを告げる。九時四五分に読書を終了し、本を閉じさせる。九時四五分のチャイムと同時に『朝の読書カードに今日の記録をしましょう』などと告げる……」。これでほんとうに読書好きになるのだろうかと疑問を抱かずにはいられない(ちなみにロダーリは、「子どもを読書嫌いにする九ヶ条」のなかで、学校で読書を強制すると、子どもたちに「本を読むことは、大人が命令し、大人の側からの権威の行使と結びついた、避けがたい苦痛の一つである」という教訓を与えるだけだと述べている[『幼児のためのお話のつくり方』作品社・窪田富男訳])。
訳者の関口さんは、なにか「朝読」に恨みでもあるのか、ずいぶんな言い方だと思います。確かに、「朝読」に対する批判、非難はわかります。かえって読書嫌いを作ることにならないか、という指摘は当初から言われていたはずです。でも、「朝読」の効用もかなりありますし、この活動によって本が好きになった、本を読むようになったという子供もたくさんいることを見落としていると思います。
また、上に引用されている「マニュアル」の現物は読んだことがありませんが、「朝読」のサイトにあるガイド的な文章では、そこまで高圧的、強制的なものとは感じません。むしろ、それよりも逸脱して、マンガとまではいかなくても、かなり砕けた本を読んでいる子供もいますし、ただ本を広げて文字を眺めているだけの子供もいて、読むことを強制している感じはありません。これらは数年間、ヤングアダルト出版会で何校もの朝読の実際を見学してきた者として間違いなく言えることです。また先生方から話を聞きますと、朝読をすると落ち着いて授業ができるようになる、全体の成績が上がったなどの声も聞いています。それに「朝読」は必須ではないので、各学校でかなり自由なやり方で取り組んでいるというのが、あたしの印象です。
そもそも学校で読書を強制と言いますが、学校というのは少なからずそういうところではないでしょうか。完全に生徒の自主性や自由に任せていたら、学校という公の場は成り立ちません。ある程度個人の自由を制限しても全体に会わせるということを学ばせる場が学校だとあたしは思います。体育の授業でサッカーをやったからといって全生徒をサッカー選手にしようとしているわけではないように、本を読ませるということも教育の一つの手段として、もう少し長い目で見るべきではないでしょうか。
あっ、もちろん訳者の関口さんが紹介しているイタリアの取り組みは非常に面白いと思うので、「朝読」と共にうまく日本にも取り込めたらよいなあと思います。「朝読」がうまく定着しなかった学校だってあるはずです。そういうところで、別な選択肢があるというのはよいことだとおもいますので。
いや、そもそも生徒全員が読書好き、本好きにならないといけないのでしょうか?