しつこく京都のことを書きます。
参観した西本願寺や龍谷ミュージアムは堀川通りを挟んで建っています。この堀川通りを通るたびに、あたしは思うのです。堀河天皇は「堀河」と書くのに、通りの名前はどうして「堀川」なのだろうか、と。歴代天皇の名(諡号でしょうか?)はゆかりの地名などが付けられることが多いと思いますが、だったら「堀川天皇」でよさそうなものを、あえて「堀河天皇」としているのはなぜなのでしょうか?
あるいは歴史的には「河」も「川」も通用していたのでしょうか? それとも天皇と同じ文字を使うとは畏れ多いということで、後に地名の方が「堀河」から「堀川」に変更されたのでしょうか? 同じことは「白河天皇」と地名の「北白川」などについても言えると思います。
あたしは平安時代に詳しくないので、このあたりの事情はよくわかりません。ただ、天皇名では「河」を、現在の京都の地名では「川」を使っているというのが、どういう理由なのか、そこにいつも引っかかりを覚えると言いますか、気になって仕方ないのです。
そうそう、西本願寺と言えば、先日のダイアリーで西本願寺の銀杏の写真をアップしました。いま見返してみると、イチョウの葉はまだ青いです。とても紅葉、いや黄葉と言える状態ではありません。しかし、ことりっぷのサイトにある「京都の秋を黄色く染める、イチョウの名所へ」コーナーにも西本願寺のイチョウが掲載されているのですが、こちらはずいぶんと黄葉しています。日付を見ると22日ですから、あたしが訪れた翌日です。一日でここまで黄葉が進むものでしょうか? いやー、驚きです。京都も一気に秋が深まっているのでしょう。
堀川の川つながりで思い出しましたが、京都の鴨川の東側、六波羅のあたりは、六道の辻とか全体的に死者の国のイメージがあります。このあたりは京都の葬送の地だったそうで、だからそういったイメージになっているのでしょう。そこまではわかるのですが、あたしが気になるのは、なんであのあたりが葬送の地に選ばれたのか、ということです。
世界的に見て、川の東側というのは日の昇る地、つまり生者の国、そして川の西側は日の沈む地、つまり死者の国と相場が決まっているのではないでしょうか? エジプトがよい例です。もちろん、鴨川でそれを当てはめたら、京の街はあまりにも狭く、東山の裾野に南北に細長く延びることになってしまい、とても都としての機能を果たせそうにありません。ですから、鴨川の西側に街が開けたのは、都を造営したのは仕方ないことだと思います。
でも、それでも鴨川の東側に葬送の地を設ける感覚、それが腑に落ちないのです。これも、日本史、特に古代史専門の方なら簡単に答えてくださるのでしょうか? あたしは、京都へ行くとこんなことばかり考えています。