「女がいる」の中に自分がいる?

エクス・リブリスの新刊『女がいる』読了。「女がいる」で始まる断章、それも散文詩のような文章で綴られた小説です。

先の『エウロペアナ』同様、ストーリーがあるわけではなく、そういう意味では、物語を楽しみたい人には物足りないかもしれません。本作はどこから読み始めてもよいし、どこで読み終えてもよい作品だと思いますし、著者がなぜここまで書いたのか、まだ先があるのではないか、どうしてここで終わっているのか、そんな風にも感じられます。

97の断章は、著者というか語り手の周囲の女性について語られています。女性でない人も出てきますが、それが特に全体に影響を与えることはありませんし、実は「女がいる」で始まらない章もあります。そういう細部に拘らず、全体を読み通してみると、たいていの人は、ここで語られる断章の一つくらいは共感できる、自分でも体験したことがある、というような思いにとらわれるのではないでしょうか? そういうところに注目すると、本作は仏寺にある五百羅漢(→この中に自分を見つけることができる)のような作品であると感じました。

語り手は、もうそれほど若くはない男性で、その語り手が元妻や現在の妻、そして母親について語ります。「妻」と書きましたが、ヨーロッパのことですから、必ずしも法律的な婚姻関係にあるとは限らない感じを、読んでいると受けます。いわゆる同居人とかパートナーと呼ぶべきでしょうか? 語り手が中年のようなので、その「妻」も中年で、若さに弾け、魅力あふれる女性としては描かれてはいません。むしろ生活や人生に疲れ、時にはイライラして語り手にあたるような情緒不安定な面も見え隠れします。この不安定さが、東欧の特色なのでしょうか? と、簡単に結びつけてしまってはいけないのでしょうが……

個人的には、63章の意地悪な感じ、73章の初々しい感じが好きです。そして85章を、そのまま大好きな女性に送りたいなあ、と思いました。そんな風に、たいていの人は、特に中年にさしかかった人なら、どこかしらに自分を投影できる作品ではないでしょうか。