アカデミズム

本日は東京駅八重洲北口を出てすぐのところにあるサピアタワーの中にある立命館大学東京キャンパスへ行って来ました。行って見て初めて知ったのですが、このタワーには立命以外にもいくつかの大学のキャンパスが入っているのですね。こんな都心の一等地にキャンパスを構えるなんて、私学はやはりお金を持っているものだと思います。

さて、なんでそんなところへ行ったかと言いますと、立命館孔子学院の公開講座「中国(語)をぼやく」を聞くためです。内容は『白水社中国語辞典』の編集でたいへんお世話になった中川正之、杉村博文、木村英樹の三先生による鼎談でした。このところ、本屋営業が主になり、大学の先生回りだとか学界などへの出展がほとんどなったかので、こういった学問的な話から離れて久しかったです。ですので、なかなか頭がついていかないところもありますが、やはり刺激的で、聞いているのは楽しかったです。我ながら、勉強というか、学ぶこと考えることが好きなんだなと思います。

話柄の中で興味深かった話題はいくつかありましたが、その中から一つ二つ取り上げるとしますと、「漢字不滅、中国必亡」という中国文のこと。「漢字が滅びなければ、中国が亡ぶ」という魯迅の比較的有名な言葉です。識字率とか近代教育だとか、当時の中国のさまざまな困難を前にして、魯迅なりに出した結論の一つなのでしょう。まあ、魯迅以外にも漢字廃止論を唱えた識者はたくさんいましたから、取り立てて奇異なものでも突飛な言説でもありません。

この文章、特に接続詞はありませんが、何々ならば何々というふうに、条件として解釈するのが一般的です。ところが最近の学生は「漢字が滅びることはないが、中国は必ず亡びる」という解釈をすることが多いそうです。これだと逆接に結んでいる構文となります。中国語の場合、逆接に読むためには、それを示す接続詞が必要になるので、この解釈は間違っているというのが教室での教え方になるわけですが、なぜに条件だと接続詞はなくてもよいのに、逆接だと接続詞が必要になるのか、やはり条件とか因果の関係の方が普通の流れだからなのでしょうか?

また中国語の「初恋」には「初めての恋」という意味と「恋愛の初めの頃」という二つの意味があるのに、日本人は得てして二つ目の意味を忘れたり知らなかったりするそうです。言われてみると、「初夏」と言った時、それは「夏の初めの頃」を指すのであって、「初めての夏」という意味で使うことは、日本語ではまずありませんね。「田舎から東京へ出てきて初めての夏]という意味で、日本語の場合、「初夏」という言葉を使うでしょうか? たぶん使わないでしょう。

また、「このレポートを5時までに提出しなさい」と言えば、5時きっかりまでに出さないといけなくて、5時10分でも、5時50分でもアウトです。それに対して「5日までに出しなさい」と言われた場合、4日のうちに出す必要はなく、5日であれば朝一番で出してもお昼に出しても、あとちょっとで6日になるという夜中に提出してもOKです。「時」と「日」の持っている幅の違いが感じられる好例です。

中国を話柄にしながらも、言葉そのものについて考える愉しい一時でした。