いつになく冗舌?

現代の作家たちは、ペル・ジムフェレールが指摘したように、もはや社会的地位というものを叩きのめそうとするお坊っちゃんではないし、ましてや社会不適合者の群れですらなく、むしろ社会的地位のエベレストに登ろうとする、社会的地位に飢えた中流階級や労働者階級出身の人々のことだ。マドリード生まれの金髪やブルネットの子供たち、人生を中の上で終えたいと願っている、中の下の人々。彼らは社会的地位を拒まない。必死になってそれを求める。それを得るためには大量の汗をかかなければならない。本にサインする、微笑む、見知らぬ土地を旅する、微笑む、ワイドショーで道化を演じる、大いに微笑む、お世話になっている人には絶対に歯向かわない、ブックフェアに出席する、どんな間抜けな質問にも愛想よく答える、最悪の状況でも微笑む、賢そうな顔をする、人口の増加を抑制する、いつもお礼を言う。(P.155、「クトゥルフ神話」より)

 

出版社の特権、刊行前の新刊を手に入れることができる! ということを別に自慢したいわけではありませんが、最新刊『鼻持ちならないガウチョ』、読了しました。

 

今回も、先の『売女の人殺し』同様、短編集ではありますが、かなり感じが異なります。『売女』はボラーニョ自身とおぼしき主人公が登場する作品も含まれていて、小説というよりは自伝といった趣を濃厚に感じさせる作品集でありましたが(ただし、あたしはそういう自伝的な作品よりも、純粋にフィクションの作品の方が面白く読めましたが)、今回は最後の二篇が講演原稿であり、その他の作品も、それほど濃厚に自伝的な感じを漂わせているわけではありませんでした。むしろ、もう少し大きく広く、ボラーニョが生きたチリ、そして南米の社会を描いているような作品集と言ったらよいのかな、と思いました。(そういう意味では「ジム」は『売女』に収録されていても違和感がないような気がします。)

秀逸なのは、やはり表題作である「鼻持ちならないガウチョ」、そして「鼠警察」の二篇です。「ガウチョ」は解説などを読めばわかるように「ドン・キホーテ」を彷彿とさせる滑稽さなのでしょうが、「ドン・キホーテ」を読んでいなくても、知らなくても主人公の滑稽さ、田舎暮らしをすることになった都会人のズレ、何とも言えない淋しさをたたえた笑いがこぼれます。

「鼠警察」はカフカの作品へのオマージュと言うことですが、こちらもそれを知らなくとも何の問題もなく読めます(現にあたしがそうです)。むしろ『2666』を読んだ人には、ネズミの世界を借りた「2666」なのではないかとすら思えるのではないでしょうか? あちこちでネズミが無残にも殺される凄惨なシーンの連続にもかかわらず、どこかユーモラスに感じるのは、読みながら頭の中で小太りなネズミの姿を思い浮かべながら読んでいたからでしょうか? このネズミ連続殺人事件(いや、殺鼠事件)も「2666」同様、犯人とおぼしきネズミが捕まりますが、これまた「2666」同様、すべての殺人の犯人(いや、殺鼠の犯鼠)がそのネズミ一匹ではないのでしょう。そして、逮捕後も殺戮は続くのだと思われます。

最後の講演の部分に至るまで、あたしは『2666』と『売女の人殺し』しか読んだことはないのですが、今回のボラーニョはとても冗舌に感じました。もちろん過日、セルバンテス文化センターでのイベントで、ボラーニョ生前のドキュメンタリーを見て、決して寡黙な人ではないという印象は持っていましたが、今回の作品集ではさらにボラーニョの声が聞こえる気がしました。

  

これだけの大長編を書いているボラーニョですから、体の中から言葉があふれ出してくるのだとは思うのですが、これまでの作品では決して冗舌であるという印象は受けませんでした。しかし、今回の作品ではボラーニョがやけにおしゃべりになった、そういう印象を受けました。これは、今後の<ボラーニョ・コレクション>も楽しみですし、まだ未読の『野生の探偵たち』を読むのがますます愉しみになりました。