どこにでもいる、どこにもいない

このところは毎晩寝る前に、エクス・リブリスの新刊『逃亡派』を読んでいます。

なんとも一言では言い表わせない作品です。基本は短編集なのですが、それぞれの話が繋がっているような、いないような、いきなりテイストの異なる作品に変わったり……。前作『昼の家、夜の家』を読んでいないので、これが著者の持ち味なのか否か、なんとも判断できません。

 

が、そんな中、とても光る文章が散見されますので、まだ読み終わってはいませんが、ご紹介いたします。

 

彼女はわたしに時間についての講義を始めた。彼女が言うには、定住し農耕する民族は、循環する時間を好む。そこではあらゆる事象が、かならず初めに戻る。胚にかえる。そして、成熟と死のおなじプロセスをくりかえす。いっぽう、移動を常とする遊牧民や商人たちは、自分たちのため、旅にもっとふさわしい、べつの時間を考えなくてはならなかった。それが線的時間で、こっちのほうがずっと便利だ。なぜならこれは、目的までの達成度や、成長の割合をはかるから。一秒はそれぞれちがう一秒であって、けっしてくりかえされたりしない。つまり、リスクだって、精一杯生きる望みだって、ほんの一秒も無駄にしないで、それを受けとめる。でもじっさいのところ、これはつらい発見だ。推移した時間がもとに戻らないとすれば、喪失と哀悼は日常になる。だから、こういう人びとの口からは、「むなしい」とか「尽きた」とか、その種のことばは聞かれない。(P.53、「どこにでもいる、どこにもいない」より)

 

なかなか考えさせる文章です。哲学的とも言えるのではないでしょうか?

これにつづく「空港」という作品もなかなか面白いです。そして61頁からの「臆病者の列車」はとっても不思議な作品です。そんな列車、ちょっと乗ってみたくなります。