司馬遷と百田尚樹

違和感のあるタイトルですが、最近の百田尚樹に関するいろいろな人の発言を見ていると、作品と作者の関係について考えさせられます。大ヒットしているらしい映画「永遠の0」についても、あたしは見ていなし、原作も読んでいないので意見を言えるような立場ではありませんが、それでも岡田准一、井上真央といった人気訳者二人が主演で特攻隊の映画であるとくれば、作者がどんなに戦争反対、平和が大事と主張しても、あの時代を美化しているように思われてしまうのも仕方ないのではないかと思います。

今回の映画に限らず、安倍と仲が良いという時点で、あたしは虫が好かないのですが、個人的な主義・主張や信条と作品は切り離して考えるべきなのか、それとも一体と見なすべきなのか、難しいところです。どんなに作者が嫌いでも、素晴らしい作品なら、それはそれで評価しようという意見にも一理あると思いますし、作品には作者の人柄がにじみ出るものだから決して切り離せないという意見にも大きくうなずいてしまいます。

そんなことを考えていて思い出したのは司馬遷の言葉です。

司馬遷と言えば中国の古典中の古典、『史記』の作者です。紀元前100年くらいのころに生きていた人です。時の皇帝・武帝の怒りを買って宮刑に処せられ、それでも生き恥さらして(←泰淳を思い出しますね)『史記』を完成させた歴史家です。『史記』が歴史書なのか、はたまた司馬遷の小説なのか、この「小説」というのは現代の小説と意味ではなく、歴史書が客観的で公正なものであるという建前に対し、『史記』が司馬遷の歴史観を色濃く反映している作品であるという意味でやむなく使った単語です。

その司馬遷には「任安に報ずるの書」という文章があります。「任安」とは人の名前で「ジンアン」と読みます。有名なエピソードなので知っている方も多いと思いますが、当時の漢帝国(世界史で習ったところの前漢)は北の異民族・匈奴(きょうど)との死闘を繰り返していました。長らく漢の方が劣勢だったのですが、武帝の時代になり、漢の国力がついてくると有能な将軍も輩出し匈奴を打ち破るようになってきました。そんな漢側の大将の一人・李陵が匈奴の大軍に囲まれ降伏するという事件が起き、武帝が烈火の如く怒ります。君側の重臣たちは武帝におもねり李陵を非難するのですが、司馬遷だけは李陵は立派に闘いやむを得ず降伏したのだと弁明したため死刑を宣告されるのです。

本来ならこのまま死刑になるところ、司馬遷には父親の遺言によって古代から現代までの歴史書を仕上げるという一族の使命があり死ぬわけにはいきません。そこで死刑をあがなう手段として宮刑に処せられるという方法を選んだのです。男子にとって求刑とは男子でなくなることですから屈辱的な刑罰です。それでも歴史書を完成させるためには他人からなんと言われようと生きながらえなければならない、というのが司馬遷の思いだったわけです。

その後、時間をおいて、そんな気持ちを友人の任安に伝えた手紙が「任安に報ずるの書」です。『文選』(←「もんぜん」と読みます)に収録されていますので古代から日本人にもかなり知られている文章です。ここで、ようやく百田尚樹の話からつながるわけですが、この手紙の中に作品と作者の関係について有名な一節が載っているのです。大意だけを紹介しますと、

「周の文王は囚われの身となって『周易』に説明を付し、孔子は災厄に遭って『春秋』を作り、屈原は放逐されて『離騒』を賦した。また左丘明は視力をなくして『国語』を編み、孫子は脚を斬られて『兵法』を整えた。呂不韋は蜀に左遷させられて世間に『呂覽』が伝わり、韓非は秦に囚えられて「説難」「孤憤」という文章を作った。『詩経』三百篇はおおむね聖人や賢者が発憤して作ったものであり、すべて人の思いがそこに凝縮されているのである」

中国古典に不案内な人にはちんぷんかんぷんな文章かもしれませんが、古典作品はどれも個人の熱い思いによって作られているのだと言うことを述べ、自分の歴史書も司馬遷一族が受け継いできた歴史的な使命がそこに宿されているのだという表明です。こういう文章を学生時代に読んできた人間には、やはり作者が嫌いだと作品も嫌いだし評価もしないという結論に行き着いてしまうのです。