エルシノーアの一夜

作品が三つ収録されているUブックスの『夢みる人びと』の一つめ、「エルシノーアの一夜」読了。

 

今回も『ピサへの道』に負けず劣らず、読み応えのある作品です。その中から印象深かった箇所を……

もうひとつおかしなことがある。自分たちの人生にはこれという出来ごともなかった二人が、夫や子供や孫のいる既婚の女友達のことを話すとき、あわれみと軽蔑のそぶりを見せる。あの臆病な連中は、気の毒に、退屈で平板な人生を生きているのね、という調子である。自分たちには夫も子供も恋人もいないけれど、だからといって、私たちこそロマンチックで冒険にみちた人生を選んだのだと思うさまたげにはならない。つまり、二人にとっては、可能性のみが関心をそそるのだ。現実にはなんの意味も認めない。あらゆる可能性をわが手におさめ、決して手ばなさない。一定の選択をして、限られた現実に堕落するよりも、そのほうがましなのだ。今でもなお、ことの成りゆき次第では、縄ばしごをつたって駆けおちもできるし、秘密結婚をするかもしれない。誰も止めることはできない。したがって、二人が心をゆるす親友といえば、同類の老嬢とか、不幸な結婚をした女たち、つまり可能性に生きる円卓の仲間たちなのだった。しあわせな結婚をし、現実に満足しきった女友達に対しては、可能性に生きる女たちは心やさしくも別の言語を使って話すのだ。そういう相手はいくらか低い階級に属する者たちで、言葉をかわすには通訳が必要だとでもいうように。(同書、P.43)

以上は、この物語の主人公でもある姉妹のことを述べた箇所です。若いころから美しく、社交界の中心にいた二人ですが、なぜかどちらも結婚をせずにきてしまったのです。もちろん求愛者には事欠かなかった二人ですが、ここにあるように結婚することによって未来の可能性を捨ててしまうことを潔しとせず、結婚もできるし、しないこともできる、恋人を作ることもできるし、作らないでいることもできるという自由な人生、つまり可能性にあふれた人生を選んだ結果、老境にさしかかろうという年齢になってしまったのです。

あたしはこんな高貴な考えを持っているわけではありませんが、なぜかとてもシンパシーを感じてしまいました(汗)。