昨日の日曜日、午後から神保町で譚璐美さんのトークイベントでした。
ちょうど三省堂書店神保町本店の一階で開催中の「年末年始は神保町で人文書フェア」関連イベントとして行なわれたものです。譚璐美さんの著書『帝都東京を中国革命で歩く』の舞台の一つが神田神保町界隈ということもあり、中国近代史に興味のある方が集まってくださいました。
譚璐美さんにとっては、自家薬籠中の話柄。すらすらと立て板に水のごとく、あっという間の一時間でした。
では、手元のメモを元に、少しトークイベントの内容についてご案内いたします。
まず現在は中国人の訪日、滞日ブームであるとのこと。それは80年代の改革開放政策により、海外で学んだ優秀な人材を育成しようという流れがあり、そういった人材が現在は50代となり、日本の大学で教授などの地位に就いている。
それに対してほぼ百年前の日本留学ブーム。その理由の一つは、日本の明治維新の成功、その結果、アジア初の近代国会の誕生という事実。中国(清)もそうなりたいという中国人の自覚を生んだのは、アヘン戦争、義和団事件、そして日清戦争の敗戦。
特に軍事を学びたいという中国に対し、最初のは12歳くらいの少年を欧米に派遣していたが、数年後には中国の文化などを忘れ欧米流になってしまっていた。また欧米諸国は士官学校への入学を認めてくれなかった。
そこで改めて日本への留学が試みられ、日本側にも嘉納治五郎など教育に熱心な人士がいて、清国人のための学校が開設された。1905年が日本留学ブームのピークとなるが、その当時の日本は、鉄道の開通により東京や大阪などで都市化が進み、物流も発達してきた。都市からは情報の発信、つまり新聞の発行が始まったが、それにはそれを受け入れる読者の存在があった。印刷技術の発達により出版文化が栄え、知識人が量産され、海外留学から帰国した学生が教壇に立つようになってもいた。
当時の日本にやってきた中国人は、丸ごと日本に染まろう、染まりたいと思うものが多く、日本人女性との恋愛や日本名を付けるなどの行為も見られた。
翻って当時の清国は、科挙が廃止され、立身出生の手段を求める読書人にとって海外留学がそれに代わるもの(洋科挙)となり、特に日本の地理的な近さ、渡航費用の安さ、数ヶ月という短期留学も可能な便利さが追い風となって日本留学ブームとなった。
そして神田神保町界隈。明治や専修といった大学が立地していること。清国人向けの日本語学校があったこと、清国留学生会館があったことなどから中国人留学生が集まるようになり、人がさらに人を呼び、留学生のメッカとなっていった模様。
というわけで、上の写真はイベント後のサイン会でいただいたサインです。3冊、書いていただきました。
ところで譚さんのお話に日華学会という組織が出てきました。『帝都東京を…』にも書かれていますが、震災で命を落とした留学生の供養を行なった団体だそうです。嘉納治五郎といい、日華学会の人たちといい、日中戦争にいずれ向かおうとする日中両国の間にあって、純粋に友好を願った民間交流だったと思います。
昨今も日中間がギスギスしているわけで、多くの人が民間交流を重ねていけば、ということを訴えています。それはもちろんその通りだと思いますが、戦前のこういった事例を見ると、民間交流も大きな歴史の流れの中では無力なのではないか、そんな気もしてしまいます。
それでも諦めない、という気持ちが大事なのでしょうけど。