プロ野球だけではない!

もうひとつのプロ野球』の書評がいくつか出ました。その中で週刊現代の2月13日号に載った高橋秀実さんの評にはいろいろ考えさせられました。

同書の紹介はこちらに譲るとして、その評で書かれていることは

自らを「埋もれた才能」と信じ、下手であることも「まだまだ伸びしろがある」と解釈する。異常なまでにポジティブ。勘違いというか「治療」が必要なほどらしい。

という若者たちの姿です。そんな彼らはゆとり教育世代らしいです。いつまでも自分の(あるはずのない)才能を信じ、社会に出て自分を客観的に見つめることを拒否しているような若者たち。

そんな指摘を読むと、たぶんこれ、プロ野球だけじゃないだろうな、と思います。たぶん他のスポーツでもありえることでしょう。ただ、他のスポーツでは、プロ野球ほど華々しい、スポットライトのあたる場が用意されていないので、もう少し冷静に自分を見つめられるのかもしれませんが、人気のあるサッカーでは、本書に書かれているプロ野球界と同じことがおきつつあるのではないでしょうか?

いや、それを言ったら、それよりももっと前に「大学院」というのも似たような存在ではないだろうか、という気がしてきました。あたしが院生だったころと現在を一緒にしてはいけないのはわかっているつもりですが、文科省が博士を増やせと大号令をかけたころから、研究者としてやっていける才能もないのに大学院へ進学する学生が増えた、いや増やされたのではなかったでしょうか。そして、そうやって大学院に入ってきた学生の中にも「自分はまだ本気を出していないだけだ」と嘯いて、結局使い物にならない人材ばかりがたまっていく。

あたしが院生のころ、恩師の一人は言ってました。研究者として見込みのない者を大学院に入学させないのも大事なことだと。もちろん研究者になるつもりはなくて、「もう少し勉強したい」というだけの人もいるでしょう。でも、そういう人は、大学院へ進んでしまうと就職先が極端に狭まってしまうことを理解しているのでしょうか? それに大学院はあくまで研究者養成の場だと思うので。

うーん、この本、就職を控えた大学三年生に読んでもらいたい!

でも、イマドキ若者はきっと、「この本に出てくる奴らは自分の才能のなさがわかっていないんだ。自分はそんな連中とは違って、本当に才能があるんだから」とのたまうのではないでしょうか?