日本の出版界は不甲斐ない?

下の写真は今朝の朝日新聞の紙面、火野葦平の記事です。

読んだことはありませんが、名前くらいはもちろん知っています。読んでみたいなあとも思っています。

そして、この記事を興味深く読んだ人はあたしだけではないでしょう。そんな人があたしと同様、「火野葦平、読んでみるか」と思ったとしても不思議ではないはずです。朝日新聞の影響力を考えると、日本全国、今日一日でどれくらいの人が「火野葦平を読んでみよう」と思ったことか。

しかし、この記事の情報欄「もっと学ぶ」によれば、彼の作品は全集しかないようです。すべて全集に入っているから全集を買えばよい、というのはバブルのころの発想で、今では図書館ですら全集の購入には二の足を踏むのではないでしょうか。

そもそも、火野葦平といったら『麦と兵隊』ではないかと思うのですが、こういった代表作が単行本で手に入らなくなっているとは、日本の出版界ってこれでよいのでしょうか? これは出版社の人間としてではなく、本好きな人間としての素朴な疑問です。

前にもこのダイアリーで書いたような記憶があるのですが、現代作家は別として、日本って昭和戦前以前の作家の作品、あるいは文学史に残る古典が単行本では手に入らない国ですよね。ある程度は岩波文庫や新潮文庫、角川文庫などの文庫本として残っていますが、単行本ではほぼ皆無です。

そりゃ出版社の事情というのもわかりますが、これってどうなのでしょう? 文庫本で手に入るだけマシ、という意見もわかりますが、単行本が手に入らないというのも寂しくはないでしょうか?

 

司修さんの『本の魔法』を読むまでもなく、作品と本の装丁とは切っても切れない仲です。そりゃあ、装丁に凝った文庫本もなくはないですが、基本的に文庫本はその文庫レーベルの装丁に倣うもの。単行本のように、その本ごとにこだわった装丁を施しているものは稀です。本当に好きな本だったら、文庫本ではなく単行本で所持したいものではないでしょうか?

また、こうも思います。夏目漱石を研究しているアメリカ人の大学生が念願叶って初めて日本を訪れたとき、喜び勇んで本屋へ行って「日本文学」の棚をいくら探しても、そこに夏目漱石の『坊っちゃん』も『草枕』も、『吾輩は猫である』も置いていないのを見て愕然とするのではないか、と。

彼がたどたどしい日本語で店員さんに漱石の本が欲しいと伝えても、案内されるのは岩波文庫の棚の前。「漱石はここにあります」と言われた彼はどう思うでしょう。「やったー、漱石の原書だ」と喜んで買ってくれるのでしょうか? 一概には言えませんが、彼は日本に来れば、日本的な装丁を施された漱石の本が買えると思って来日したのではないでしょうか?

そういう期待に応えられない日本の出版界、あたしは不甲斐ないと思うのです。

いや、それでもしっかり文庫本で残しているだけマシなのでしょうか? でも、話は最初に戻って火野葦平は? 全集があるだけマシなのでしょうか?