日台作家交流

あたしごときがおこがましいですが、台湾の方のイベントだったという関連から、まずは台湾の娯楽施設での事故にお見舞い申し上げます。

さて、昨晩の下北沢B&Bに引き続き、本日午後は渋谷の丸善&ジュンク堂書店でのイベント《小説家はどう人を描くか――台湾と日本の人間模様、作家模様」》を聴きに行きました。本日の登壇者は呉明益さん、何致和さん、窪美澄さんの三名、それに『歩道橋の魔術師』の訳者・天野健太郎さん。

昨晩の柴崎友香さんとのトークでは「場所」「建物」がテーマでしたが、今日のテーマは「人」でした。以下、感想を交えつつ、自分のメモを拾ってみます。なお、聞き間違っているところがあるかも知れないので、演者の方が必ずしもここに書いたとおりに発言していたとは限りません。あらかじめご了承ください。

日本の作家の作品、特に最近の女性作家の作品に「食べる」シーンが非常に多くなっていると窪さんの話がありました。窪さんなりの解釈では登場人物の造形において、どこで、どんな風に、どんなものを食べるかというのは非常に大事なことであり、それが食事の描写が多くなっている原因の一つではないかと分析されていました。

それに対して何さんは、確かに台湾の文学作品はこれまで食事の描写を重視してこなかったが、それはあまりにもありふれた生活のひとこまであって、物語の中で大事な要素であるとは考えてこなかったからであると解釈され、台湾の作品では食べることではなく、食べている人の感情やその関係の方を重視してきたと答えていました。

話はここから膨らんで、食事と言っても日本の作品では「一人メシ」のシーンも多く、それはさまざまな生活上のストレスの表われでもあるのではないか、強がっているようでいて決して強い女性ばかりとは限らない現代日本女性の現実、そういったものの表現ではないか、といった意見も飛び出しました。

あたし個人としては、窪さんが指摘するような食事の描写というのは、やはり自宅、それもたいていは一人暮らしのアパートなどの一室で一人で食べる情景だったり、せいぜいが恋人と向かい合っての食事という場面を日本の作品では思い出します。そこでの一挙手一投足が主人公や登場人物の感情、内面を端的に表わしていたりすると思います。

それに対して台湾の作品、そんなに読んだわけではありませんが、だから大陸中国も含めてしまいますが、やはり食事というのは家族団らんの象徴、気心の知れた人たちが集ってワイワイと愉しく過ごす時間、そこには笑いはあってもストレスなど微塵も存在しない、そんなイメージです。人情の機微もへったくれもありません。とても主人公の内面を表現するようなシーンになるとは思えません。それに中国の人は自宅ではなく、外で誰かと食べるというイメージもありますから、「一人メシ」なんて文字通りに中国語訳はできたとしても、ニュアンスまで伝えられるのでしょうか、そんな風に思います。いわんや「便所飯」をや。

続いて話題は性描写です。

これは食の描写よりはわかりやすかったかなと思います。呉さんも何さんも指摘していたのは、戒厳令などもあって台湾は長らく言論統制などさまざまな規制があり、共産主義的なもの、正義と認められないもの、エロチックなものが文学以外の各種芸術分野でもかなり厳しく取り締まられていたそうです。

また上述のように食においても、食そのものではなく、それを巡る人びとの関係やつながりを描くのが主になるのと同様、性描写も性描写それ自体ではなく、性行為の前後の感情の揺れや二人の関係性などを描くのが主となる、日台の文学性の違いも原因ではないかと何さんが指摘していました。

しかし、呉さんも何さんも言うように、最近は性描写のある作品も増えているそうで、そういったタブー意識は薄まっているようです。窪さんは、日本の女性作家に性描写が多いのは、男性作家や男性編集者目線が主であったこれまでの文学作品中の性表現に対する異議申し立て、違和感があるとのこと、かつては「女性が姓を描くなんて」という空気が日本にはあったそうです。

さて、『歩道橋の魔術師』は呉さんの本邦初訳の作品。何さんの作品は残念ながらまだ邦訳は一つもありませんが、トークの中で紹介された『マンゴーツリーハウス』は是非読んでみたい作品です。

ところで、今日はこういうイベントだったのでこんなTシャツで参加しました。ユニクロです。