「胡同」を「フートン」と読ませる本がまた出版されました。晶文社の『老北京の胡同』です。
ちなみに「また」と書いたのは『北京の胡同』が念頭にあったからです。タイトルこそ似ていますが、後者は現代の中国ルポという性格が強く、もちろん庶民目線のリポートですが、ジャーナリスティックな書きぶりです。それに対して「老北京」の方はよりエッセイに近く、古きよき北京を記憶に留めておこうという、ノスタルジックな味わいのある著作です。
さて「老北京の胡同」は北京在住、それも胡同に住んで10年以上という著者が、夫である写真家(本文中の写真はほとんどが夫の撮影)と共に、大規模再開発によって失われていく胡同を、時間の許す限り歩き回って、そこに住む人に話を聞き、自分でも調べて書き留めた記憶です。
著者自身の好奇心が最大の武器なのでしょうが、北京生まれという夫の存在も、中国人の中に分け入っていく上ではかなり助けになったのではないかと思われます。
その北京の胡同。
通り一遍の観光客ではまず入っていくことのない細かな露地です。真っ直ぐに伸びているところも多いですが、ジグザグに曲がりくねって、果たしてこの先通り抜けられるのだろうかと不安になるような道も多々あります。日本人の目から見ると汚くて臭くて治安も悪そうで、と見えてしまうところですが、町歩きが好きな人、北京に慣れ親しんでいる人には表通りにはない庶民の息づかいを感じられるまたとない場所です。
そんな胡同が改革開放後の西洋化、都市化、そして北京オリンピックに向けての都市整備によってどんどん失われていったようです。胡同は通りだけを言うのではなく、そこに建っている家屋、そしてそこに住む人々を含んだ慶観なわけですが、再開発の波はそういったものを一切合切その土地から引きはがしてしまったようです。それを惜しむ著者の視線のやさしいさ。
もちろん、拝金主義のこの時代。よそ者である著者が懐かしがっているだけで、そこに住む住民はもっとたくさんのお金を手に入れようと、胡同の歴史などにはお構いなく平気で売り飛ばしている現実、電気水道などのインフラも遅れている胡同の住環境とおさらばしたいと思っている住民の気持ち、そういったものを指摘することも著者は忘れてはいません。最後に紹介されているように、結局はそこに住む人たちが、自分たちの住んでいる場所の歴史を学び、その価値を見いだしていかないと、歴史的景観の保護は実現できないのだということがわかります。胡同のよさなど考えずに、ただ住んでいるだけではなんら保護にはならないということもよく理解できます。
それにしても、既にこれだけの胡同が失われてしまったというのは惜しいことです。
しかし、日本でもこういうシーンがありますよね。例えば、田舎へ行った都会の人が田園風景の中の道路を見て「素敵な風景なのに道路がアスファルトで舗装されているのが興醒め」と言うのに対し、現地の人が「雨が降ったらぬかるんで歩きにくい。われわれは舗装されて喜んでいるんだ」と言い返すような場面。一概に昔のままを残しておくことがよいのか、考えさせられます。なまじ便利な都会に住む人は自分たちの便利さを棚に上げて、田舎の人にばかり不自由さを押しつけがちです。
北京の再開発も、実際の胡同を見れば居住環境としては決してよいとは言えず、むしろ劣悪といってもいいような状態ですし、防災の面からも何かしらの対策が必要です。さらにはほぼ平屋ばかりの住宅が大都市の都心部の大きな面積を占めているというのは、観光客の来訪や人口の流入を捌くにはあまりにも非効率きわまりないことは誰にでも理解できることだと思います。
なら、どうすればよいのか、よかったのか。簡単に答えの出る問題ではありませんが、時々ヨーロッパなどの都市にある、旧市街と新市街のように、歴史的景観を残した旧市街はそのままに、都市開発はその周辺に新たな場所を見つけてやるという方法もあるのかな、とも思います。