ワンシージー

よく晴れた日曜日、東京は上野公園にあります東京国立博物館へ行って参りました。目的は現在開催中の王羲之展円空展を見るためです。

平成館をフルに使っていた王羲之展に比べると、本館の大階段奥の大部屋一つで開催されている円空展とでは、人の混み具合もかなり異なるのではと予想していました。確かに王羲之展の方が多くの人が入っているのでしょうが、円空展も負けてはいません。むしろ会場が一部屋しかないために混雑具合で言えば、円空展の方が立錐の余地がないくらいでした。

さて、まずは王羲之展です。ちなみに、ご存じだとは思いますが、王羲之の「羲」の字は「義」ではありません。「羲」です。上半分の「羊」は共通していますが、下が異なります。もしかすると「おうぎしって漢字で書いてみて」と言うと、多くの人が「王義之」と書いてしまうかもしれないですね。くれぐれもお間違いのないように(笑)。

それともう一つ。王羲之では最も有名と言ってよい「蘭亭序」。まさか、「伊藤蘭の亭主だから水谷豊のこと」なんて思っている人はいませんよね?……(-_-;)

さて、王羲之ですから、基本は書跡です。書籍ではなく書跡です。唐の太宗が国中の王羲之の書を残らず集めた(集めようとした)のは有名な話で、すべて自分の陵墓に副葬品として埋めたから真筆は一つも残っていない、という話も巷間よく聞かれるエピソードですが、史実はどうだったのでしょう?

それはそうと、王羲之の書、そんなにすばらしいでしょうか? 世に能書と呼ばれる人は日本にも中国にも大勢いますが、とにかく書聖と崇められる王羲之が最高峰と言うことになっています。でも、あたし、今回の展覧会を見ても、それほど王羲之の書がよいとは感じないのです。王羲之よりももっと好きな字はありますし、能書かもいます。すぐに名前や作品が出てきませんが、見ただけですばらしい、すごいと思えるような書はほかにいくらでもあり、そんな中で王羲之の書が一頭抜きんでているかと問われれば、あたしにはそうは感じないのです。

もちろん、こういったものはそれぞれの人の感覚、感性によるものですから、「王羲之ってそれほどでもないよね」ということを他の人に強制するつもりはありません。あたしだって決して下手だといってるわけではありません。あくまで王羲之よりも「うまいなあ」と感じる書がほかにあるというだけのことです。

ついで円空展。

円空という名前くらいはどこかで聞いたことがあるなという程度の知識でしたが、なんとも言えない、素朴なぬくもりのある仏様ですね。決して精緻な技巧を施した仏様という感じではありません。もちろん、かなり細かな彫りが施されたものもありますが、多くは荒削りな、言葉は悪いですが、児童の夏休みの宿題の木彫のような、ほのぼのとしたものばかりです。都の貴族が愛好するのではなく、田舎に暮らす庶民が心から信心する対象、そんな雰囲気がある仏像ばかりです。

円空って、鎌倉か室町の人かと思っていたら、江戸前期の人だったのですね。だから仏像もこれだけ残ったのでしょうか?