MS Pゴシックの呪い?

白水社というと何を思い出すのでしょう? いや、「何を」ではなく、「どんな本を」と言った方がよいでしょうか?

まずは、何と言っても『ライ麦畑でつかまえて』ですよね? この数年は村上春樹訳『キャッチャー・イン・ザ・ライ』も売れていますが、単純に書名の知名度から言ったら「ライ麦」に軍配が上がります。

 

では、その次は何でしょう? 人文書に興味がある人、語学書から白水社を知った人、演劇関係の方などなど、白水社はジャンルが広いので、人によって知っているジャンルにかなりの違い、片寄りがあるだろうと思います。ですので、次に有名なものというのは絞りきれませんが、候補の一つとして『チボー家の人々』を挙げても、それほど反対にはあわないのではないでしょうか?

現在、新書判の白水Uブックスで全13巻の一大長編です。夏休みなどの長期休暇、あるいは定年退職後に挑戦、という方がいまだに大勢いるようで、コンスタントに注文が入ります。それほど有名であり、名作であり、白水社を代表する作品でもありますので、こちらとしては誰であれ「読んだことはなくても、タイトルくらいは聞いたことある作品」だと思い込んでいます。でも、でもですね、最近、何本か立て続けにこんな電話注文を受けたんです。

「チボ一家の人々は在庫ありますか?」

たぶん、パソコンやスマホなどの画面ではわかりませんよね? 上の電話注文の言葉をひらかなでもう一度書きます。

「ちぼいっかのひとびとは、ざいこありますか?」

はい、わかっていただけたでしょうか? 「チボー家」の「ボ」の次の音引き、長音符号が、漢数字の「1」に読まれているんです。しかし、「チボー」ではなく、「チボ」という「一家」って、ヤクザやマフィアじゃないんですから……(汗)

しかし、この違いって主として明朝体を使う新聞広告などでは区別もしやすいでしょうけど、パソコンなどのデジタル機器ではデフォルトがゴシック体なので、そうなると音引きと漢数字の1とは、見た目ではほぼ区別できませんよね。

いや、ゴシック体で区別できないからって、書店員が「チボー家の人々」を知らないなんて、ありえないでしょう?

そういう心ある書店員の方の叫びも耳に入ってきますが、現実にこういう電話注文(もちろんかけてきたのは書店員さん、たぶんバイトの人)が複数あったのですから、既に常識ではないのです。ちなみに数年前に『父 荷風』という本を出したときも「荷風」が読めずに「にかぜ」と注文してくる書店が何軒もありました。

きっとお客様から渡された書評や広告の切り抜きを見ながら電話をしてきたのでしょう。「永井荷風」とあれば「かふう」と読めたのでしょうか? だとすると「永井」を端折ったタイトルを付けた白水社が悪いのでしょうか? これについても「いや、永井がなくても荷風でわかるはず」という多くの書店員さんの声が届いておりますが、「チボー」に負けず劣らずたくさんの事例がありました。もちろん明朝体とゴシック体の問題ではありませんが。

荷風で永井荷風が連想できないのであれば、チボー家の人々知らなくても当たり前ですね。「知っていて当然」と思い込んでいるこちらが傲慢なのかもしれません。

ところで、ゴシック体だから仕方ないのかも、と綴ってきましたが、そうなると「チボー」にはもう一つ問題が隠されています。

この文章を読んでいる方、どんな媒体で読んでいるのでしょうか? ほぼ100パーセントがPCの画面ではないかと思いますが、「チボー」と「チポー」って、見た目で区別できていますか? わかりません? 「ホ」の右上が「点々」なのか「丸」なのか、です。これは比較的わかりやすい方かもしれませんが、文字によって、あるいは媒体によって、「点々」なのか「丸」なのか非常に紛らわしいものが多々あります。

「チボー家の人々」のように、文字を見なくても音声としてこの言葉を知っているものであれば問題ありませんが、そうでないもの、たとえば外国の人名とか地名のように、こちらが知識として持っていない単語が出てきたら、「点々」なのか「丸」なのか、パソコンやスマホの画面では判読しづらいものが最近は非常に多い気がします。欧文が併記されていればある程度わかりますが、そうでないとお手上げです。

ゴシック体、もう少し工夫できないものでしょうか?