この留学体験記は、そもそも東洋大学時代に所属していたサークル「中国語文研究会」の会誌『とんやん』に発表したものです。
従いまして、書きぶりや言葉遣いなどは気心の知れたサークルのメンバーを意識していますので、多少変なところがあるかと思いますが、ご了承下さい。
また、『とんやん』掲載時には、私が北京で撮った写真をコピーして文章の合間に配置したりしましたが、ここでは別に「写真帳」としてより多くの写真を掲載してありますので割愛しました。
北京見聞録
<序>
この作文は、「読者が手元に北京の市街図やガイドブックを持っている」ということを前提に、北京の街を紹介するものです。私の独断と偏見に満ちたガイドに従って北京の街を散策して下さい。
<第一週>
私は二月二十日に北京に着いたのですが、北京の「首都飛機場」も、成田ほどではないにせよ、かなり市街からは遠いです。しかし、これまた見事に市街から一直線に道が走っていました。約三十分で、所謂市街を囲む三環路という道に到着しますが、ここまで来ると右側通行にも慣れてきます。さて、三環路は東西南北の四辺には東西南北三環路という冠がつき、それがさらに東中西・南中北と呼称が分かれているので、市街の東北角に入って来た私たちは、その東直門の1キロ程手前の交差点から北三環東路に入ると私は思っていました。しかし、更に一本内側の二環路の交差点・東直門まで来て、二環路に入りました。因みに、二環路という名は一般には使われていません。私たちは徳勝門まで来て、北上し、三環路へ出て、西へ向かいました。私たちの北京外国語学院は西三環北路にあります。途中、友誼賓館というホテルで両替をしました。学院は三環路を挟んで東西両院に分かれ、留学生は西院を使います。
次の日曜日に、前日一緒に来た私を含めた五人で王府井へ出かけました。まずバスで公主墳まで出て、地下鉄に乗り換えたのですが、この地下鉄は日本にあるガイドブックと路線が違うので注意した方がいいです。環状線が出来上がっているのです。そこで東西線から復興門で乗り換えて、前門で下りました。北を見ると、遠くに天安門がありました。天安門広場は予想を上回る広さでしたが、天安門はそれ程でもありませんでした。また、地図に載っているより歩くと結構長いので、天安門はなかなか迫ってきませんでした。東長安街を歩き、王府井へ行き、東風市場という市場へ行きました。ここでの(別にここだけとは限りませんが)人の多さはすごかったです。また品物の安さにも驚いきました。
ところでこの第一週は、二十四日に故宮を訪れたのが面白かったです。面積的には皇居と大差ないのに、やはり建物の多さと、日本とはスタイルの異なる様式のためか、それとも映画「火龍」「西太后」のせいか、とても広く、そして神秘的なものを感じました。因みに中国では、地を石で固めてしまう造園(?)法なので、私はキライです。
そしてハイライトは二十八日の万里の長城見学です。当日は雪で、最高にロマンを感じさせてくれました。しかし、長城自体のきわめて急な坂のせいでヘトヘトになったのもいい思い出です。やはり、長城は冬です。雪原の彼方から、匈奴が攻めてきそうでした。
それから話は前後しますが、二十六日には北海公園・景山公園に行きました。なんと北海は波(さざ波)がそのまま凍っていて、遊覧船が出ないかわりに、氷の上を歩いて渡りました。断わっておきますが、氷上歩行禁止の看板は(中国の人々は完全に無視していたけれど)ありました。そして、岸の近くは氷が1メートル近く溶けてしまっていたのが、とてつもなくおそろしかったです。親父が、恐る恐る氷を踏んで岸に上がろうとしているのに、小石を岸から投げて氷を割っているその息子には笑ってしまいました。景山はやはり故宮を見るべきでしょうが、北側の鐘楼・鼓楼も見逃してはいけませんね。
<第二週>
三月に入って2日に頤和園に行きましたが、このころから北京は本当に暖かくなってきました。長城へ行った頃は極寒だったのです。本園では、見どころの仏香閣が改装中で見学できませんでしたが、それ以外は改装(修繕)されてまだ間もないようで、大変きれいでした。そう言えば、この日はとても天気がよかったです。
四日は天壇公園へ行きました。ここは、何となく、奈良とかの、古代のエネルギーを感じさせる要素があって、ムーの世界でした。しかし、回音壁はほとんど聞こえなかったので、人の少ない時に試しましょう。
さてここで断わっておきますが、成田から来たのは五人(全員が東京モンではない)で、大阪空港からは七人が来ていましたが、彼らは私たちより一日遅れの二十一日に到着しています。
<第三週>
八日に琉璃廠へ行きました。はっきり言って王府井の新華書店より、ここの中国書店や古籍書店の方が品揃えは抜群によいので、中国へ行って本を買いたい人は、ここへ来ましょう。私はその後は十日と十七日に来て、馴染みの店も出来ました。古い街並もだいたい復元されております。ただ派手なだけだったけど。
九日は、更に派手な雍和宮というラマ教の寺院へ行きました。ラマ教というのは本当に面白い宗教で、男女交合の仏像もありました。以前は何もしていなかったのに、数年前からは腰の部分は布で覆われていて見えなくなっています。それにしても、ここでは本当に宗教の面白さと不気味さを味わいました。
この週の十一日から十四日まで大同へ旅行に行きました。十一日の夜、寝台で出発し、十二、十三と市内外の名勝旧跡を見て、十三日夜にまたも寝台で帰京して、十四日の朝北京駅に着きました。大同では九龍壁と懸空寺と、何といっても、雲崗石窟が良かったです。中国内の三つの九龍壁はこれで凡て制覇したのでした。残り二つは故宮と北海公園にあります。特に大同のには因縁があるのです。それは、ここでは省きます。
<第四週>
十六日に、香山公園方面の臥仏寺と碧雲寺へ行きましたが、はっきり言ってそれ程でもなかったです。その日は、北京ダックを食べ、京劇を見ました。
やはり十八日に行った圓明園がサイコーです。あの廃墟は、夕暮れ時に恋人と歩いたら最高でしょう。今度は是非、可愛い女の子と夕方に訪れてみたい。ヘヘヘ……。
<第五週>
この週はツアーということで、十九日夜列車で洛陽へ行き、二十一日の夜に西安へ向かい、二十三日夜上海へ出発し、二十五日は一日蘇州へ行きました。
まず、洛陽。『九朝古都』と呼ばれるように、あの鬱陶しい気怠さが何とも言えませんでした。雨の中の龍門石窟はとてもよく、悠久という言葉が何とマッチしているのだろうかと何度も思いました。
次の西安も北京にはない落ち着きをもった街でした。早朝に列車で到着した時は、もやのため、ますますエキゾチックな雰囲気が漂い、そのため白さの中に老人たちの太極拳が見え隠れして、とてもよかったです。
秦の兵馬俑は全く予想通りの大スペクタクルで、却ってしらけてしまったし、華清池は池が悪臭を放っていました。
西安を夜七時半に出発し、上海には翌日の夜十時近くに着きました。丸一日列車の中というのは結構疲れるものでしたが、皆と取り留めのない話をしたりして、何とか時間をつぶして過ごしました。
ところでこのツアーには、大阪組が六人、東京組が私と横浜の女の子一人の計八人が参加していました。
蘇州はもう疲れていて、みんな楽しく見学するどころではないようでした。
二十六日に、大阪組は帰国し、私たちは二十七日に帰国しました。
<結語>
北京なら、バスに乗ったり、買物をするのにほとんど支障なく行なえるようになりました。と言うよりは、北京の人と話をすることへの抵抗がほとんど無くなったと言った方がいいでしょう。
しかし、一ヶ月の生活を通じ、洛陽や西安の人々の方が、優しく大らかに思われました。上海では、上海語を勉強したいと思いましたので、これから機会があったらやってみたいと思います。
<蛇足>
一元が約三十五円ということは、それだけでは全く無意味に近いものですが、大陸で実際に買物などをする時、一元でどれくらいのことが出来るか、どんな「東西」が買えるかということに目を向けると、驚愕せずにはいられませんでした。本当に自分がリッチマンになった気分です。
続・北京見聞録
<序>
かれこれ(こんなキザな台詞は、私には似合わないなぁ)中国から帰国して半年近くになるのであるが、あちらで中国語を使って生活していたなんて夢のような気がしてくる今日この頃である。今回は題名を偽ってしまうが、洛陽・西安・蘇州・上海について書いてみたいと思う。
<其ノ一>
洛陽の白馬寺は、仏教をやったことのある人には(否、中哲生なら当然)必修の名称である。つまり、中国における仏教の発祥の地なのである。彼の昔、後漢の頃、白馬に乗った王子様よろしく、僧が西の方からやって来て、時の皇帝・明帝が彼らのために建立したのであるとかいう話は、『後漢書・西域伝』に見える。
この寺の山門の外に白馬がいて、一枚何百元とかいう暴利で写真を撮ってやるという中国人が沢山いて追っかけられてしまった。その白馬が明帝の時の話に出てくる白馬なら、千元出してもいいのだが、そんな訳ないな。
龍門って、確か司馬遷の生まれたとこだよなぁと思いつつ、国際旅社のガイドさんに借りた真っ赤な傘をさして、モノトーンの風景の中に立っていた私を、龍門の石窟たちはせせら笑っていた。目の前は伊河という川が雨の中を悠久と流れ、それにかかる龍門橋は、向こう岸が見えなくて、モノトーンというよりは歴史色という感じがたまらなくて、その中を右往左往する真っ赤な私は、始皇帝に穴埋めにされそうなレーガン大統領のような(何のこっちゃ)場違いを演じてしまっていた。
この石窟の前、つまり川の対岸は、やはり山になっていて、これは白居易の墓なのだ。白居易と白楽天が同一人物だって高校の頃は知らなかった私も、今ではこんなに立派になって墓参りをしています。
白居易の有名な詩って何だったっけとぶつぶつ言いながら、そうだ『長恨歌』だと叫んだ私を、仲間は無視してくれた。つい数分前まで私は、『離騒』だったっけと思い悩んでいたのであった。折角思い出したのに。
<其ノ二>
駅に降りるとそこは城壁の前。好きな女の子の前でドキドキしている少年のように私の胸は高鳴った。
城壁の内側は白かった。地面から1メートルくらいは白くないので、人の足だけが白い朝の中で太極拳をしていた。宿舎に着くまで心の中で、ワァーとイイナァこの感じという二語を繰り返していた。百年河清を待つようなこの白い霧。映画『FOGS』(誰も知らないかな)みたいな感じと言ったら、余りにもこの歴史の重みは伝えられないし、富士山とかの高地の朝は、これに比べたらモヤだから、ただの霧じゃなくて、中国四千年の伝統のエネルギーの気体タイプのエキス入りの霧だ。
例の兵馬俑の少し離れたところに、秦始皇陵があって、小高い丘になっている。断わっておくが、何もないただの丘だ。でもこの周りを掘ると色々な物が出てきそうだ(実際、お宝が出て来るのだろうと思う)からたまらない。でもやっぱりただの丘で、周りは見事な田園風景である。
碑林は、今思うと結構良かった。白文の十三経(白文なのは当然か)を手で触ってみたが、知っている章句では音読したりした。大きな字から小さな字まで、丸文字から角文字まで、どれか一つ持って帰りたい。そういえば、拓本を作っているところ見たのが、百聞は千聞に如かずじゃなくて、一見に如かずのよい勉強になった。
大雁塔って、三蔵法師ゆかりの寺(大慈恩寺)にあるけれど、ただの塔なんだと思う。でも上まで登ると西安が見渡せて、やはりここどもワァーとなる。しかし、崩れてしまいそうな気がした。巴金の『長生塔』のように。
西安は、あの霧のせいなのか、とっても好きにならせてくれた。西安に比べたら北京なんて、まだまだ青い。だって周王朝の昔からだもんね。
<其ノ三>
寒山拾得って、わざわざ蘇州の寒山寺まで来たのだから知っているよねと思ったら大間違い。私は、「寒山拾得」っていう言葉しか知らなかったのさ。
寒山も拾得も人の名前で、本当に二人なのか一人なのか、それとももっと大勢の人の総称なのか謎が多いけど、風狂な人らしい。この人は、唐の人です。それからこの寺は、例の「月落烏啼霜満天」の句で有名だったのは知っていたけど。
虎丘っていうのが蘇州にあって、呉王闔廬の塚なのだそうだ。この時は、霧雨が降っていて写真が撮りにくいなあ(カメラが濡れるから)と思いながら、上海でのガイドさんに上海語を習いながら見学しました。どうも天気が悪かったから、ぼんやりとした印象しか残っていないのが残念である。
ところで、蘇州は、庭園が有名で、中国の四大名園のうち「拙攻園」と「留園」があるのだけれど、時間がなくて全く見学出来ませんでした。結局見たのは、北寺塔、寒山寺と虎丘だけです。上海から列車で一時間もあれば着けるのに、マイクロバスで行ったから四時間近くかかってしまった。
蘇州の運河は、余り見られなかったけど、水の都という印象は薄く、敢て水に拘われば雨かな、という具合です。蘇州って、みんなが言う程じゃないなぁと思ったのは、他ならぬあの雨のせいでしょう。因みに、このツアー中は、最後の三月二十六日を除くと、ずっーと雨でした。洛陽では、それが却って良かったんだけど……。西安では、割と晴れていたなぁ。
<其ノ四>
上海は丸一日南京路を歩いただけである。だから、ガイドブックに載っているような見どころへは全く行っていないと言っても過言ではない。
ところで、この時は大阪空港利用の仲間は、帰国してしまっていて(二十六日の朝、宿舎を発ちました)、残るは私と横浜の女の子一名の二人きりで。朝食を食べると二人でバスに乗って南京路まで行き、上海一と言われる繁華街を散策しました。買物をして、食事をして、大流行の肝炎に恐怖して、てな具合でした。
締めくくりに、和平飯店(中国では、飯店、賓館と言ったらホテルのこと。このホテルは、上海でもベストスリーにランクされる程の高級ホテルです)の北楼七階だったか八階だったかのレストラン(中華は飽きたので洋食の)で、上海の黄浦江を行き交う船と、黄昏から夜の帳が降りる街を見下ろしながらワインで乾杯して、食事をして……。バックには、ピアノが生演奏でショパンを奏でていた、と言うより叩いていたと言う方が正しいかな。窓からは大時計が見えていて、これがライトで輝いていた。
この時計が三度目の時を告げ、そろそろ戻ろうということになり、タクシーを頼んで宿舎へ帰った。
<結語>
上海で一緒だった子は、横浜の子だから、上海の港の風景が横浜みたいだと言っていた。私は私で、陸の方のゴチック風の重々しい建物が銀座とか日本橋辺りに似ていると言って、二人でお互いに帰国したら確かめに行くと言い合っていた。
バンドと言うところが川沿いにあって、これは公園なんだけど、やたらとカップルが多くて、何となく居づらくて、目の遣り場に困ってしまった。あっちのアベックは、必要以上にベタベタしていたのが印象的であった。
<註釈>
白馬寺の白馬とは、作り物の白馬ではなく、山門の脇の方で飼われていた本物の馬のことです。
<今回もある蛇足>
白馬寺の前で飼われていた何頭もの馬たちは、自分たちがどんなに由緒のある寺院の門前で、どれほどセコイ商売に利用されているかなど知る由もないだろう。
しかし大学で中国のことを話していて、ある先生もこのような暴利としか言いようのない中国人のしたたかな商売に何度も遭遇したということでした。
また、名勝旧跡へ行くと、小学生くらいの女の子が寄って来て、自分で作った折り紙細工のような物を1元とかで売りに来ます。凄まじい根性だなぁと感心していると、瞬く間に取り囲まれてしまいます。みなさん、中国へ行くことがありましたら、「換銭」と共に、この手の商売には十分ご注意下さい。でも、気が向いたら一つ買ってみたら……。