論理の飛躍?

このところの集団的自衛権のニュース。安倍首相を始め、推進派から聞こえてくるのは感情に訴える演説ばかりで、冷静で論理的なものがほとんどない、というのは新聞などに書かれていることです。確かにそうだよね、とは思いますが、感情に訴えるといいつつ、あたしなどはほとんど心になにも響いてこないのですが……

よく使われるのが、大事な家族が危険なめに遭ったら、という言い方です。確かにそういう言い方をされれば、誰だって愛する家族を守るためには体を張って、時には罪を犯すようなことだってするのだと思います。でも、集団的自衛権で想定されていることって、そんな家族といった個人レベルの話ではありませんよね。それを家族の話に矮小化してしまうのはおかしいのではないか、そう思うのです。よく言われることですが、人を殺すと殺人罪に問われるけれど戦争で敵を殺すと英雄として賞賛される、というケースです。殺人は多くを殺せばそれだけ罪が重くなりますが、戦争では多く殺した方が勲章が増えます、功績も大であると見なされます。これは個人レベルの殺人と戦争という国家レベルの殺人とを同列に論じられないことのモデルケースですが、今回の集団的自衛権では逆にあえて同列に論じているような感じを受けます。

で、あえて違うレベルを同列で語ってみると、確かに家に凶悪な強盗が押し入ってきて家族が危険にさらされたら、多くの人は武器を持って強盗に立ち向かうのでしょうが、戦後の日本って、たとえそういう状況になっても決して武器を持つことはしないと決めたのではなかったでしょうか? 戦争は加害者も被害者も多くの苦しみを背負うことになる、そんなことはもう二度としたくはない、被害者にも加害者にも決してなるまい、そう決めたのが戦後の日本人だったと思います。たぶん自民党の人たちは、そう決めたのはアメリカや占領軍であって日本人がみずから決めたのではないと主張するのでしょうが、果たしてそうでしょうか?

それに、上述の強盗の話で言えば、強盗に押し入られないようにこちらも武器を持つのではなく、強盗などがいなくなるような社会、世界を作ろうというのが日本国憲法の理念だったのではないでしょうか? そのためにも近所づきあいなどで普段から周囲と仲良く助けある関係を築いておきましょう、というのが本当の姿だったのではないでしょうか? 少なくともいまの自民党政権には、そういう日ごろのケアに努力する姿勢はまるで見られず、終わりのない武装競争に突き進んでいるように見えます。