先日、紀伊國屋書店で飴屋法水さんのトークイベントのゲスト朝吹真理子さんの『きことわ』を読みました。イベントの前後にちょこっとだけを言葉を交わす機会がありましたが、あたしなんかよりもはるかに落ち着いた感じが漂っていたのですが、あたしよりかなり年下なんですよね。しかし、本作を読むとその独特の言葉遣い、単語の選び方、やはりあたしよりずっと年上に感じられます。
さて『きことわ』ですが、特に何かがあるという作品ではありません。四半世紀も前、母親が管理人をしている物件(別荘)によく来ていたきこ(貴子)と遊んだ想い出を持つとわ(永遠子)。その別荘をきこの家が手放すことになり、解体も近いというので残っている家具などの整理に訪れ四半世紀ぶりに再会を果たします。そして荷造りをして別れる。ただそれだけの話です。
そのあいまに、きこもとわもそれぞれが記憶している想い出の情景がよみがえり、それが挟み込まれて描かれます。よい喩えになっているか不安ですが、誰かと面と向かって話しているのに、その話ながら頭の中では別のことを考えている、そんな感じです。そして、この作品ではその目の前にいる相手の会話を丹念に描きつつ、頭の中の情景も丹念に描いているのです。更には、そんな自分の周囲の様子、目に映るもの、そしてそこから連想されて心に浮かぶもの、そういったものが一つも漏らさず文字にされている、そんな作品です。
と、書いてしまうと簡単なようですが、実際に自分がそれを書いて見ろといわれれば、すぐにでもその難しさがわかるというもの。そして、朝吹さんの筆致のせいなのでしょう、この作品は推さなかった自分が未来を覗き見て(空想して)描いているのか、あるいは齢を重ねた現在の自分が子供のころを懐かしんで書いているのか、どちらが小説の中の「いま」の時間なのかあやふやです。
そして、読み終わった時に感じたのは、もしかして、二十五年後の別荘で再会したというのは嘘ではないのか。きこは既に亡くなっていて、とわが勝手にきこがそこにいるかのように夢想しているだけではないのか。あるいは逆に、とわが既に亡くなっていて、久しぶりに訪れた別荘できこが永遠との想い出に浸っているだけの話なのではないか。そんな気がしてきました。
たぶん、そう解釈してもよいのではないかと、そんな風に思います。