人体のもっとも強い筋肉は舌である

 英語が話される国がある。でもそこでは、わたしたちみたいには英語を話さない。わたしたちは母語を、旅行の手荷物のなか、化粧ポーチに隠して、外国で、他人に向かって英語を話す。想像しにくいことだけれど、彼らにとっては英語が母語だ。しかもそれが唯一のことばであることもしばしば。このことについて、彼らはみじんの疑念も抱かない。
 この世界で、彼らは困惑しているにちがいない。だって世界のどんな説明書も、どんなくだらない曲の歌詞も、レストランのメニューも、仕事上の連絡も、エレベーターの昇降ボタンさえ、彼らの母語で記されているのだから。彼らがなにを話しているのか、どんなときでも、みんなにわかる。私的なメモには、特別な暗号が必要かもしれない。彼らがどこにいようとも、みなが彼らに無制限にアクセスできる。だれもが、なにもかもが。
 英語話者を守るため、あるプロジェクトがすでに進行中だと聞いた。話者の死に絶えた、もうだれにも必要とされていないちいさな言語のひとつの使用を、彼らに認めるという計画だ。英語話者も、自分たちだけのものが持てるように。

『逃亡派』より。