そんな趣味はないはずですけど……

別の本を読み始めたりしていて、しばらく「積ん読」になっていた『あなたはなぜ「嫌悪感」をいだくのか』をまた読み始めました。

その中で「ネクロフィリア」について述べたところがあります。

ネクロフィリア愛好者の知的レベルは標準であることが多く、精神障害者でもサディスティックでもない。むしろ、一貫して最もよくみられる性格的特徴は、きわめて自己評価が低いことだ。ネクロフィリアについてのフロイト派の説明によると、自己評価の低さが原因となるのはどうやら、「大切な他者(自分に重要な影響を与える人物)」がいないことのほかに、性的に拒否されるのではないかという恐怖心といった他の問題や、さらには自分の死を恐れるがゆえの「反動形成」とされる場合もある。(P.246)

自己評価が低くて、大切な人がいないなんて、まるっきりあたしのことを言われているみたいです。でも、あたしは決してネクロフィリアには興味ありませんし、願望もありませんので、念のため。

ただ、生きている人は苦手だから死んでいる人へ興味が向かうという感覚自体は理解できます。時に「人間は嫌いだけど動物は裏切らないから好き」という人がいますが、それと似た感じでしょうか? いや、完全に誤った理解でしょうか?

とにかく、自己評価が低いのは事実なんですが、あたしにはこういう異常性愛の趣味はまるっきりありませんのでご安心くださいませ。

とはいえ、存在がそもそも異常だと言われることもしばしばなんですが……(汗)

それにしても、こういうことをした人が「生き返らせるための儀式」だと主張しているのは興味深いですね。自分の生命のエネルギーを死体に注ぐことによって死者にもう一度生命を与えようという発想、古代にあってはそういう発想がごく普通に唱えられても不思議だとは思いません。中国の房中術なども、男性の陽の気だけではだめなので、女性と交わることによって女性の陰の気を取り込もうという思想が根底にありますから(則天武后のように陰陽が逆の発想ももちろんあります)。

しかし、自分の生命のエネルギーって他人を蘇らせられるほど旺盛なものなのかどうか、そこが問題ではないでしょうか? 自分がどうにかこうにか生きている人間には、とても他人の生命の面倒まで見ようという元気はないはずだと思います。