あの鳥はどうなった

伊豆の大島が大雨で大変な被害になっているそうですね。いまだ行方のわからない方、恐らく土砂の下敷きになってしまっているのでしょうが、この雨で捜索もできないとは、家族の方の胸中お察しいたします。

ところで、大島と聞くと何を連想するでしょうか? そもそも関東近県の人で伊豆大島へ行ったことがある人って、どれくらいいるのでしょう? いや、大島でなくても、伊豆諸島のどれかでも構いませんが、行ったことがある人って何パーセントなのでしょう? 意外と少ないのではないかと思うのですが、どうでしょう? 何の根拠もない、漠然とした印象ですが、たぶん東京の人で伊豆諸島のどれか(尾が澤rを加えても可)に行ったことがある人と、沖縄(本当及び周辺の島々)へ行ったことがある人を比べたら、もしかすると沖縄の方が多いのではないかという気がしますが……

で、大島で連想するものですが、三十代くらいの人ですと、映画「リング」を思い出すのではないでしょうか? あたしの記憶では、山村貞子の故郷が伊豆大島ではなかったかと思います。

あたしの場合、もちろん「リング」も思い出しますが、やはり行ったことがあるので、その時の記憶が蘇ります。

あたしが高校一年の時ですから、1983年です。ごくごく普通の都立高校に通っていましたが、その高校では一年の一学期に大島にある都立のセミナーハウスへ二泊三日で修学旅行(?)に行くのが恒例行事でした。高校に入ってまだひと月ちょっと、お互いの交流を深めるために、というのが学校側の目的だったのではないかと思います。ちなみに、いわゆる修学旅行は二年次にありました。

その大島旅行ですが、行きは熱海までバスで移動し、熱海から船で大島へ渡りました。帰りは大島から竹芝まで船で帰るという旅程でした。実は書には天気が悪く、確か低気圧が来ていて雨降りだったのを覚えています。海は荒れ、熱海に着いた時点で船が出るのか心許ない天候でした。しかし、二、三百人からの高校生が到着してしまっているのでやむを得ないと判断したのかどうかわかりませんが、とにかく船は嵐の海へ出発しました。

熱海からですと大島は天気がよければ肉眼で見えますよね? それくらいの距離ですが、とにかく大荒れの海でしたから、生徒のほぼ全員が船酔いに苦しめられるという状態でした。船室では気持ち悪くてぐったりと横になっている生徒がそこかしこ。トイレに駆け込むものも続出で、たぶん雨の中、デッキから海へ吐いている人も何人もいたのではないでしょうか?

もちろん、乗り物酔いしやすいあたしが平気なわけはありません。あたしがぐったりと寝っ転がっていました。吐いてしまったかどうか、今となっては覚えていませんが、とにかく気持ちが悪かったという記憶が残っていますし、その晩、セミナーハウスのベッドに横になっても体が揺れている、ベッド自体が揺れているような感覚が残っていたのを覚えています。

なんとか無事に船が大島の港へ着いた時、あたしを含め生徒のほとんどが帰りはこの何倍もの時間、船に乗らないとならないんだ、という憂鬱な気持ちでいっぱいでした。船に乗るくらいなら帰りたくない、というのが当時の素直な気持ちでした。実際のところ、帰りは海も穏やかで船も揺れず、行きとはまるで異なる快適な船の旅を満喫できたわけですが、とにかく到着時の気分は最悪でした。

さて、この旅行中の活動では三原山登山というのが組み込まれていて、クラスごとに三原山へ登りました。火口まで行ったのか、途中までだったか、その当たりの記憶が定かではないのは、歩き始めてじきに、あたしは小鳥の死骸を見つけてしまったからです。カナリアだったような気もしますが、とにかくそれくらいの大きさの鳥の死骸でした。道路端に打ち捨てられたようにあったのがかわいそうで、あたしは拾い上げ、それを大事そうに手に持って登山をしていたのです。もう少し高いところへ行って埋めてあげよう、そんなことを思っていました。死んでそれほど時間がたっていないのか、カチンカチンで冷たい、という小鳥のからではありませんでした。また歩いている途中で、手の中で糞をされました。たぶん肛門から垂れ流されたのでしょう。

小鳥を持って火口付近の適当なところで地面に穴を掘って埋めたのを覚えています。その上に卒塔婆よろしく木の枝でも立てたか、墓石を模して石でも置いたか、その辺りの記憶がやはり不鮮明なのですが、あたしなりに成仏させてやったという満足感は感じられました。天気のよい日だったという記憶が残っています。

でも、今回の土砂災害の原因でもある大噴火が起こったのは1986年。住宅地付近まで溶岩が流れてきて、かなり大きなニュースであったわけですが、その時あたしは、テレビのニュースを見ながら、あの小鳥の墓はどうなっただろうか、とそんなことを思っていました。少なくとも、この時の噴火で、高校生だったあたしたちが登った三原山の面影は、そして地形、風景は記憶の中に残るのみで、もう跡形もなくなってしまったのだという、ちょっと感傷的な気分にさせられたものです。特にあたしの場合、大島や三原山に対する思い入れというよりも、あの小鳥に対する思い入れが、そういうちょっとセンチメンタルな気持ちを起こさせたのではないかと思います。

そして、今回の惨事。大島の景色はまたも変わってしまったのですね。これ以上、被害が広がらないことを祈ります。