美を愛でるこころ~和様の書~

本日より三日間の盆休み。

休みの日は出かけずに自宅で録りためた映画などを見て過ごすのが習いとなっているのですが、今日は違います。東京国利博物館へ「和様の書」を見に行ってきました。

さて、本展覧会、はっきり言ってしまえば書道の展覧会です。来ている方はやや年配の方が多いかなと言う気がしますし、皆さん、書道を稽古されていらっしゃるのでしょうか? ふと感じた疑問は、見に来ている方のうち、どれくらいの人が展示されている名筆の数々を読めるのかということです。つまりは崩し字です。

書ですから、やはり読めなかったら面白さは半減してしまうのではないか、否、そもそも読めない人に書のよさがわかるのか、という意見もあるかと思います。あたしもその意見にうなずかないわけではなく、やはり一文字一文字しっかり読める楷書が好みといえば好みです。

ただ、その一方、たとえば連綿で、何と書いてあるのかまるっきり読めない作品でも、懐紙・料紙がが美しく、その美しさを引き立て、あるいは引き立てられているような作品は美しいなあと感じます。今回の展示品でいうならば、竹生島経のようなすっきりとした、読みやすい文字の作品が個人的な好みではあるのですが、元永本古今和歌集のような作品も好きです。

この流れで言えば、当然のことながら平家納経は別格の美しさですし、紺紙金泥や金銀交書の法華経などもやはり美しいなあと感じられます。逆に、能書家の作品だと解説に書かれていても、平凡な、草食のない料紙に書かれているものにはあまり惹かれません。正直、いったいどこがいいんだろう、と思うこともしばしばです。

ところで、多くの作品は鑑賞用、特に茶の席での掛け軸だったりするわけですが、当時の人、そして江戸・明治くらいまでの文化人ならば、こういう崩し字も難なく読めたわけですよね? であればこそ、こういった作品が床の間に飾ってあっても、それを賞翫できるわけで、飾った主人の方も鼻高々となるわけでしょう。

でも、現代人の場合、読める人ってどれくらいいるのでしょう。この展覧会を見に来た人はさすがに読める人の割合が高いのだと思いますが、たぶん、上野の駅前でランダムにインタビューしたら9割以上の人が読めない(作品にもよるでしょうが…)のではないかと思います。そうなると、和様の書って、現代人はどういう風に鑑賞したらよいのか。上に書いたように、料紙との対比など、ただただ美的に鑑賞すればよいのでしょうか。

もちろん、あたしは先に読みやすい字が好きだと書きました。お経などは一文字一文字は何という漢字だか見ればわかります。でもお経として読めるのか、となると話は別で、結局、文章として読めないのであれば、連綿の崩し字が読めないことと大差ないのではないかとも思います。

その思いは、東博の後に銀座線で表参道へ向かい、根津美術館で「曼荼羅展」を見た時に改めて感じました。

あたしは曼荼羅とかチベット仏教のタンカなどが好きで、過去にも何度か展覧会を見に行っています。色や意匠、とにかく毎回目を奪われますが、ではあたしは曼荼羅が表わしているもの、描いているものを理解しているのかと問われれば、否と答えるしかありません。決して仏教的な理解に基づいて鑑賞しているわけではなく、ただ単純に美術品として好みであるというだけのことです。

となると、和様の書が読めないということも、別に鑑賞する、好ましく思うという時に、決して間違った態度ではないのかな、という気もします。もちろん曼荼羅を見るにはしっかりとした知識の裏付けを持って見るべきだという意見もあるでしょうし、それを言われたら返す言葉もありません。でも、わからなくてもなんかいいなあと感じる、それで十分なのではないかな、と思えば、なんて書いてあるか読めない名筆でも、とにかく眺めていればよいのではないかと思います。

ところで、「和様の書」展で最後に思ったのですが、中国の影響を受けつつも日本独自の進化・発展を遂げたのが和様の書であるというならば、

今日も暑いですね

→ 今日も暑ぃτ〃すね

→ 今日も暑レヽτ〃すЙё

→ 今日м○暑レヽτ〃£Йё

といった描き方をする、現代の通称ギャル文字は和様の書の最末端に位置する現象なのではないかと感じました。最後の一角で、これらギャル文字の展示があれば、「おお、トーハクも変わったなあ」と感じられたのでしょうけど。

ちなみに、文字は読めなくたってよいのだそうです。

同館副館長島谷氏の『書の美』にそう書いてありました。