履歴書代わりの暇つぶしエッセイ

暇つぶしエッセイ

第5回 大学2年次

大学1年の夏休み以降は、上に述べたような課題も無事作り上げ、ある程度ペースをつかんだというか、やり方のこつを飲み込んだような気持ちを持つことができ、なんとか終えました。2年生になると講義形式の授業としては「文献学」がありました。演習は「老子」と「漢書司馬遷伝」でした。「老子」は江戸期の和刻本の復刻したものを使いました。確か宇佐見某の版です。「漢書」は初めは先生が指定した「仁寿本二十四史」を使いました。これは図書館でコピーをとりました。しかし文字が見にくいこともあり、中華書局本を個人的には併用しました。

この司馬遷伝はまず冒頭に「重黎」という司馬遷の先祖の話があります。このあたりはほとんど伝説と言っていい事柄なのですが、書いてあることがさっぱりで、かなり苦労しました。仕方がないので王先謙の「漢書補注」を使い始め、それを読み進むことになりました。これが泥沼への第一歩でした。結局、この演習は「重黎」だけで前期をすべて使ってしまいました。ただこちらとしてはわからないことを調べられるだけ資料を漁り、皆で議論して納得を得られるまでやりあうという、いかにも演習らしい授業を楽しんでいました。ちなみに後期もいろいろ行き詰まるところがあり、1年が終わっても司馬遷は生まれませんでした。我々はその後、この授業のことを「漢書司馬談伝」と読ぶようになりました。それはせいぜいお父さんの司馬談しか授業で読み進んだ範囲には出てこなかったからです。

2年次というのは今振り返ると、1年生の時に中国学とはどういうものかをつかめたか否かで、その印象がずいぶん変わるものだと思います。中国学をつかむなんていうのは大袈裟ですが、要するに漢文を読んだり出典を調べたりすることに苦痛を感じなくなることができるかということだと思います。苦痛を感じないようにするには、何人かの友達同士で出典調べを共同でやるのがいいと思います。私も友人と出典調べを半分に分け、授業までにそれぞれ出典を見つけコピーし、なおかつお互いにそれぞれの分担部分を訓読・解釈して相手に伝えるという作業をしてました。わからなかったところは相手の意見を仰ぎます。2人してわからなければ授業でその部分について先生がどうコメントするかを待ちます。不幸にして先生がそこにあまり注意を払わず素通りしてしまった場合には質問をします。

以上は特別特殊な勉強方法でもなければ、これで一気に漢文が読めるようになるという奇策でもありません。しかし、私には非常に有効な方法でした。ところでこの頃だと思いますが、出典を調べるのに「中国叢書綜録」を使うようになりました。ある本を探したい時に、有名な本なら単行本として発行されたものが、たとえ古い時代のものでも、存在するかもしれません。しかしそれほど有名でない本の場合、そんなものが単行本として大学図書館などに収蔵されていることはまれです。そもそも、そんなものは自筆稿本かなにかが中国の図書館に1本あるだけでしょう。

ではどうやってその本を見つけるのかと言いますと、中国の本(特に古典に類するもの)はたいていの場合、何らかの叢書に収められています。比較的多く見られるのはその著者の他の著作と一緒にその人の著作集的な形でまとめられているものです。恐らく最近の人の著作でない限り、中国人の書いたものは、必ず何かしらの叢書に含まれていると言っても過言ではないでしょう。少なくとも大学の授業で必要とするレベルの範囲では。これらの叢書の内容について逐一書いてあるのが上記「中国叢書綜録」です。本によっては複数の叢書に入っているものもあります。そんな時は研究室や図書館に置いてある叢書のものを使えばいいわけです。入っている叢書によって多少中味に異同がある場合もあります。それも叢書綜録を注意深く見ると書いてあります。この叢書綜録の主な叢書についてだけ拾い出したような内容一覧が大修館書店発行、近藤春雄著「中国学芸大事典」に付録としてついています。初めてこの付録を見た時にはなんて便利なものだろうと思いましたが、叢書綜録を知ってからはほとんど見なくなりました。

この叢書綜録は例えば論語とか、孟子といった個々の著作を調べると、それを含んでいる叢書の名前が並んでいるという構成ですが、論語と言っても一種類ではないですから、数多く並んでいます。それぞれについて含んでいる叢書の名前が並んでいますが、私などはむしろ論語にはどんな版本なり、関連書があるのだろうかということを調べるのにも、この叢書綜録は役立っています。分厚い3冊本で、今でも中国関係の書籍を扱っている本屋でなら手に入ると思います。

(第5回 完)