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【中国文化史】
川田健著

伝説時代ー周王朝


 古に 尭・舜・禹(夏王朝の始祖)湯王(殷の始祖)文王・武王(ともに周王朝を建てた王)がおり、尭は舜に、舜は禹に、それぞれ王位を世襲によらず譲った。これを禅譲と言い、王朝交代の理想とされた。また夏王朝最後の桀王と殷王朝最後の紂王は暴虐きわまりなく、天の命を承けた湯王・文武両王にそれぞれ武力で倒された。これを放伐といい、天の命がかわることを革命と言った。革命が起きると、前の王は王たる資格を失うのである。

春秋戦国時代(B770-403-221)


思想の爛熟期 周王室の権威が崩れ、新しい制度を模索する。百家争鳴・百花斉放の時代

十家九流儒家 道家 法家 墨家 陰陽家 兵家 雑家 農家 縦横家 小説家

儒家との論争の焦点

儒家vs道家
人民に対して徳を積極的に施す【儒家】
人のありのままの性質に任せる【道家】
礼制度をによる秩序維持重視【儒家】
人智による秩序維持を否定【道家】
   
儒家vs法家
君主は人民の父。人民の幸福に道義的責任を負う
人民を不幸にする君主は天命を失い、放伐される【儒家】
君主絶対主義。富国強兵を推進する。人民は国家の道具で過酷な法による統制を受ける【法家】
すべての真理はいにしえの聖王によって確立されている。社会制度をいにしえに戻すことが社会安定の道である【儒家】
いにしえと現在では社会条件がおのづから異なる
その時代に応じた新しい制度を確立することが大切である【法家】
儒家vs墨家
人でもっとも大切なのは家族、とりわけ親である。 人に施す愛情も家族を最重要とする【儒家】
儒家の愛情は差別愛である。自分が自分を愛するがごとくすべての人を平等に愛するべきである(兼愛説)【墨家】
*儒家は理念としては尊重されたが、実状に合わないと諸侯に考えられる。 各国とも富国強兵を目指すが、文化的には後進国であった秦が法家的近代化政策を成功させて天下を統一する。


春秋時代の諸侯

春秋五覇・・周の王室を助ける名目で他の諸侯に号令をかけた有力な王。斉公を筆頭とする、諸説有り。
  →儒教では覇者(武力で天下を取ったもの)は、徳治主義の理想を壊すものとして批判された

呉越の抗争・・江南にある呉・越二国は長年抗争を繰り返した。とくに呉王夫差(ふうさ)と越王句践(こうせん)の争いは「臥薪嘗胆」の逸話で有名。のち仲の悪いもの同士のたとえとして呉越を引き合いに出す。(cf呉越同舟)

魯と宋・・魯は周の王族の封ぜられた国。周の文化をよく残した先進地域で孔子の故郷。宋は殷の末裔を封じた国で、古いものにしがみつく頑迷 な民が多いとされている。

戦国の七雄 燕・斉・韓・魏・趙・秦・楚

秦(前二二一ー二〇七)


中国最初の統一国家としての政策。

文字の統一・小篆 度量衡の統一

焚書坑儒ー法家思想・医学・占い・農業以外の書、とりわけ儒家の経典を出版禁止にして焼き捨て、逆らう学者を穴埋めにしたと伝えられる文化統制。始皇帝が実施

漢(B202-A8-A220)


*儒教の国教化

初期(武帝以前)


法三章・・秦の時代に制定された法を廃止して大幅に簡略化する
道家思想に基づく規制緩和で、疲弊した民生の回復をはかる。

武帝期


*儒家一尊・・安定した国家体制を目指す。
董仲舒の献策 五経博士を置き儒学研究を行わせて、儒教を国家体制に組み込む・・・思想が一本化される
董仲舒の思想 天人相関説。天の現象と人事とは関連する
君主が悪政を施せば天は天変地異を起こして警告するそれを災異という。
*訓詁学の発達。儒教経典を、一字一字文字の意味を正しく解釈していこうとする態度・・思想的意義を探求するわけではない。
後漢の馬融・ 玄によって大成。

歴史学の発展


・『史記』(前一世紀):
司馬遷の撰。伝説時代から漢武帝までの歴史(=通史)を王朝諸侯や個人の伝記をあつめることによって記録。=紀伝体

・『漢書』(後一世紀):
班固の撰。班超・班昭兄妹の手により完成。 『史記』の体裁に倣って前漢一代の歴史(=断代史)を記す。

この後、王朝の交代毎に前王朝の歴史を紀伝体で書くことが制度化される。これを正史といい、国家が残す正規の歴史記録とされる。


漢代までの文学

詩経:
古代の民間詩・宮廷詩・祭祀の詩を集めて孔子がまとめたもの。四言詩が中心。

楚辞:
楚の王族屈原の作品を代表とする文学。「離騒」がもっとも有名。日本書紀にも採られている。

楽府:
楽府とは音楽を司る役所の名。漢の武帝につくられた。そこでは民 間の歌を広く集めたので、のちの物語詩:社会詩のもととなった.

古代の宗教と道教の成立

1上帝信仰:
  王は天の意志を聞く存在 のちに政治と祭祀が分離
  また自然や星などを崇拝

2祖先祭祀:
  祖先の廟は一族を結ぶ絆。儒教倫理の根本。

3陰陽説:
  万物を構成する二つの相反する原理。光と陰、男と女、など

4五行説:
  万物を構成する 木・火・土・金・水の五つの要素。色、方角、心など様々なものに配当される。
  漢代になると陰陽と結びつく

5神仙思想:
  不老不死、超人的能力を身につけた仙人に対するあこがれと、それになるための方法の探求。
  薬(金丹)呼吸法など

6黄老思想:
  中国共通の祖神黄帝と老子に対する信仰。法家と道家の融合。
  前漢はじめに流行

7仏教の伝来:
  後漢に伝来(ただし経緯は不明)皇帝にも尊崇される。
  仏教側は中国思想に結びつけて伝導。・・『老子化胡教』
  魏晋南北朝以降、道教や儒教と対立融合を繰り返しつつ発展

8太平道と五斗米道:
  後漢末に起こった宗教結社
  太平道:
     張角 神の前で罪を懺悔し、病気を治す。(病は神の下した罰)
  五斗米道:
     張陵太平道の影響。より宗教的に整う。『老子』を教典として用いる。
     太平道とともに黄巾の乱を起こす。

9『抱朴子』:
  晋の葛洪(4世紀初)の著。今までの神仙思想の理論や方 法をまとめる

寇謙之の登場と道教の完成(北朝期)

 五世紀前半、北魏(モンゴル系鮮卑族)太武帝に取り入り国教化させることに成功。伝統的神仙思想や原始道教に、仏教的思想体系や儀礼形式を取り入れて宗教の形を確立する。儒教への対抗上、最古の帝王である黄帝を取り込み、老子を太上老君と称して神格化する。
  

魏晋南北朝(220-589)


長年の政治不安から儒教はふるわず、仏教・道教がもてはやされる。
 →仏教交流の拡大 仏図澄(四世紀)華北に伝導
   法顕(四・五世紀) グプタ朝インドに渡る『仏国記』
   鳩摩羅什(四・五世紀) 大がかりな仏典翻訳 達磨(六世紀)インド人。禅宗の祖。

 俗世間から離れることが美とされ、貴族を中心に老荘思想が流行。
 ・竹林の七賢(阮籍など)ー俗世を嫌って老荘を談義=清談。
 ・儒教経典である『易経』を老荘思想を混ぜて解釈

 儒教の制約がゆるみ、江南(南朝)を中心に華やかな貴族文化が展開する。また実学も盛んで、地理や農業に関する研究が盛んになった。

*文学

・建安文学:
曹操・曹丕・曹植ら中心。五言詩の確立

・志怪小説の流行:
干宝『捜神記』 劉義慶『幽明録』など冥婚譚・動物報恩譚などの不思議な話を集めている。

・四六駢儷文の確立:
形式美を徹底的に追及した貴族的文体。

・『文選』(六世紀)南朝梁の昭明太子の撰:
周から当時までの優れた詩文を集大成。日本でも貴族の必読書となる。

・陶潜(字は淵明)と謝霊運(いずれも四・五世紀 東晋ー宋):
詩の題材や形式は近体詩へ続く
  陶淵明「帰去来辞」「桃花源記」 役人生活の挫折と自然へのあこがれ
  謝霊運 名門貴族出身だが田園詩人と称される。

*その他の芸術

書道:王羲之(四世紀前半)「蘭亭集序」
絵画:顧*之(四世紀後半)「女史箴図」

*実学

地理:麗(れき)道元『水経注』 賈思 『斉民要術』

隋・唐・五代十国(581-618-907-960)


世界帝国として君臨。貴族文化の絶頂期。

1近体詩が確立し、多くの詩人が活躍する

初唐:駱賓王
盛唐:李白(詩仙)・杜甫(詩聖)・王維(詩仏)・孟浩然「春暁」・高適(辺塞詩人)
中唐:韓愈・柳宗元・白居易(字は楽天)『白氏文集』「長恨歌」「新楽府」
  →日本文学に大きな影響を与える。(枕草子 香炉峰の・・)
晩唐:李商隠・杜牧「江南春」

2古文復興運動の本格化

韓愈 柳宗元:
貴族的で形式主義の駢儷文を否定し、漢代までの文(=古文)に戻す運動。安史の乱以降、貴族の力が衰えてきて、新興の知識人層が台頭してくるのと平行して支持される。宋の欧陽脩が受け継ぐ。

3志怪小説を承けた伝奇小説の流行

 志怪小説は歴史記述の体裁を採り、一話も短いが、伝奇小説はより物語としての体裁が整い、題材も怪異だけでなくて豊富になる。「人虎伝」「河間伝」

 また仏教説話(変文)も広がりを見せ、敦煌をから続々と発掘された。

4儒教の復興と注疏学の発展

 隋に科挙が始まり、儒教経典に対して国家の統一解釈が必要となった。孔穎達は勅命を承け、主に漢代に確立した訓詁学の成果をもとにして、(=注)それにさらに細かい注釈をつけ(=疏)、『五経正義』を編集した。これは逆に学問の自由な発達を妨げる結果となった。

5宗教の展開

 仏教は禅宗と浄土宗が中心となった。中国化が進む一方で、玄奘(三蔵法師) は経典を求めてインドに留学し、帰国後『大唐西域記』を著した。また義浄も海路インドへ行き『南海寄帰内法伝』を著した。首都長安は国際都市として栄え、日本からも大勢の留学生が渡ったが、特に阿倍仲麻呂(晁衡)は唐でも高官となり、李白・王維らと親交を結んだ。
 またゾロアスター教やネストリウス派キリスト教、マニ教も布教活動を行った。
 道教側は、老子の姓が皇帝と同じ李であることを利用して皇帝に取り入り、武宗の時( 842)には大規模な仏教弾圧を行わせた。北魏太武帝( 452)北周武帝( 574)それと五代の後周世宗( 955)の大弾圧と併せて、三武一宗の法難と総称する。

6書道

 初唐に虞世南・欧陽洵・*遂良は六朝の技法を発展させて楷書の秀作を残し 盛唐には脱王羲之を目指して顔真卿が登場した。

宋(960-1127-1279)


*貴族制度が崩壊し、科挙で選ばれた新興の知識階級(=士大夫)が、皇帝直属の官僚となって政治を担うようになる。

1古文復興運動の大成

唐宋八大家
唐=韓愈・柳宗元
宋=欧陽脩・蘇洵・蘇軾(蘇東坡)・蘇徹・王安石・曽鞏

 中唐から本格化した古文重視の風潮は、宋初の欧陽脩に支持され、科挙にも古文を用いることを定めた。かくして古文は完全に駢儷文に取って代わる。ややおくれて蘇洵が出、「赤壁賦」の蘇軾・弟の蘇徹、欧陽脩の弟子である曽鞏、そして新法で有名な王安石が出た。なお、蘇軾は王安石の新法と激しく対立した。

2新儒学の形成(朱子学へ)

周敦頤『太極図説』 程*(明道)程頤(伊川) 張載
北宋初の周敦頤は『太極図説』を著して宇宙生成のプロセスを思惟し、訓詁がほとんどだった儒学に新しい潮流を開いた。弟子の程明道・程伊川はそれをさらに人間の道徳性についての解釈へと発展させた。また周敦頤と同時期の張載は、万物はみな同じ気(物質的根元)で出来ている、と考えた(気一元論)。彼らの説を集大成して体系づけたのが南宋の朱子(1130-1200)である。

3朱子学

 朱子は、伝統儒教や北宋諸家の思想はもちろん、老荘・仏教も吸収して新しい儒学を大成させた。以下に要点を記しておく。

*四書の重視:朱子学では儒教倫理法則を重視するために、実際の歴史記録である五経よりも・四書(論・孟・学・庸)に重きを置いた。特に『孟子』は古来からその価値について論議があったが、朱子が重視したことから価値が高まった。『大学』と『中庸』はもと『礼記』の一部で、思想的価値が高いとして独立していた。朱子はこれに更に整理を加えた。

*理気二元論:気とは物質的根元、理とはそれを成り立たせ動かしている法則。朱子学では理が気よりも高い次元のものであり、倫理法則が自然法則として人間を規定した。

*性即理:孟子の性善説に基づいて、人は生まれつき理を備えている、と考える。これを本然の性という。しかし性は情欲によって本来持つ性質を阻害されているこれを気質の性という。つまり性に二段階有るわけである。欲を排除して本然の性に戻すためにさまざまな修養や学問が必要となる。

→朱子学は最初は批判の対象であったが、封建的道徳観を逃れられない天理とするなど為政者にとって都合が良い部分があり国家の学問として受け入れられた。

4反朱子の学問=陸九淵(象山)の学

心即理:
宇宙の法則は自分の心(知・情・意と分化する前の根幹的なもの)の中に含まれており、心の正しい働きを見つめることによって真理は得られると考えた。朱子学に比して内省の要素が強く、禅宗の影響を受けていると言われる。この考え方はのちの陽明学に引き継がれる。

5その他の学術

百科事典:
『太平御覧』『冊府元亀』などができ日本にも輸入された。

歴史学:
『資治通鑑』北宋の司馬光の撰。戦国時代(B403)から宋成立まで (A959)の歴史を編年体で著述。朱子はこれを要約した『資治通鑑綱目』を著した。なお司馬光は王安石の新法に反対した旧法党の領袖。

6詞と詩

詞:
韻文だが詩より自由な字数で、本来メロディーに載った俗謡であるが、宋代には文学としての地位を得る。

詩:
近体詩がますます普及する。唐詩に比べて哲学的。詩人としては、唐宋八家の五人のほか、南宋の陸游が著名。


元(1271-1368)


モンゴル人第一主義により儒学はふるわず、一時的に科挙も停止される。
=九儒十丐(儒者は乞食の一つ上)。しかし反面、伝統的価値観にとらわれない文芸が発達する機会も与えられた。これは明代の口語小説の流行の基礎を作っている。

元曲

元曲とは一種のオペラ(戯曲)。代表作は王実甫の「西廂記」、馬致遠の「漢宮秋」


明(1368-1644)


 異民族支配から解放されて、再び儒教国家が建設される。中華意識は極限に達し、朱子学は国学としての地位を揺るぎなきものとし、科挙での解釈基準も朱子学が用いられた。こうして朱子学は柔軟性を失い、多くの学者はただ朱子の口まねをするにすぎなかった。こうした中で、外的規範によって心を規定する朱子学に異を唱え、陸九淵の心の哲学を取り入れた王守仁(陽明)が現れ、官制朱子学と真っ向から対立する。

1永楽帝の編纂事業

朱子学の国定教科書『四書大全』『五経大全』『性理大全』(学問の固定化)
古今の書物を集めて分類をくわえたもの『永楽大全』

2陽明学の登場

 王守仁(1472-1528)普通王陽明と呼ばれる。陸九淵の「心即理」をとり、人間に備わる心に万物の理は備わっていると考えた。また「知行合一」を唱え、朱子は先に(道理を)知り、後に行うという考え方を批判した。そして「致良知」という考え方に行き着いた。良知は心の本体、この、善である心の本体に従って行動せよ。と言い、外からの知識移入ではなく心の修養を最大限強調した。

3陽明学の展開

 王陽明の死後、修養を第一と考えるか、心の良性を考えるかによって立場が変わった。後者を俗に左派と呼び、往々にして反伝統主義を主張し、儒教倫理そのものを外からの規定と考えて批判の対象にした。その頂点に位置するのが李贄(卓吾)である。しかし一部には全く書物を読まないで空理空論に走るものも現れ、学術のみならず、士大夫倫理・政治倫理そのものの堕落が目に付いた。明中葉以降、それを立て直そうとしたのが、朱子学的要素も入れた(一部には朱子学に回帰した)修正陽明学(右派)で、彼らの多くは政治活動も積極的に行い、東林党と呼ばれた。

4経世致用から考証学へ

 明末になると東林党の流れを汲むものを中心に、実用の役に立つ学問(=経世致用)を目指す動きが本格化する。本草学の大著『本草綱目』(李時珍)もその成果である。一つには、ヨーロッパからマテオ=リッチやアダムシャールといった宣教師が続々と訪れ、西洋の科学文明が伝わり、それに対する関心が高まったことがある。徐光啓はリッチについて天文学・数学を学んだ。
 また伝統学問でも黄宗羲・顧炎武が出て、実用の役に立てるには、経典や歴史書を正しく解釈しなければならないとして、経典を客観的に解釈しようとする動きが現れた。黄宗羲・顧炎武を考証学の祖と呼ぶのはこのためである。清朝が安定すると、経世致用の目的は影を潜め、方法論である考証学のみが一人歩きした。

5庶民文学の隆盛

小説:
四大奇書 「三国志演義」(羅貫中)「水滸伝」(施沢庵→羅貫中)
「西遊記」(呉承恩)「金瓶梅」(?)
その他も沢山の口語小説が流行する。


清(1616-1911)


 異民族王朝である清朝は、漢民族をあめとむちの政策で支配した。士大夫の支持を得るために儒学を奨励し、大編纂事業を行って政治不満を押さえ込んだ。一方で満州族批判対しては容赦なき弾圧を加え、満州の風習である弁髪を強制した。その結果、学術としての古典研究は長足の進歩を遂げたが(=考証学)、思想的発展は乏しく、明末に芽生えた経世致用の気風は衰え、自然科学研究も、布教の形を巡ってローマ法王と摩擦が起きてから(=典礼問題)は、西洋科学の摂取が途絶えてしまった。
 伝統的中華思想の頂点に満州族が君臨するいびつな国家体制は、あいも変わらず対等な外交関係を拒み、(イギリスからマカートニー・アマーストが対等な外交関係を結ぶことを要求したが、中国風の礼を強制したためこじれてしまった)ついに世界の変化に取り残されて、1840年アヘン戦争によって半植民地化の第一歩を迎え、学術も変化を余儀なくされる。

1考証学の功罪

 考証学は、古典を正しく理解するために客観的に古典を見つめる学問。(スローガンは「実事求是」事実を求めることを極める)その対象は四書五経から諸子に至るまで幅広い。つまり儒教の聖典である四書五経も、思想的価値を離れて普通の古典と同じレベルまで引き下げられたのである。これは自分の主観に引きつけて古典を解釈する陽明学の対極にあるといえる。しかし特に清朝中葉になると思想的意義の考察には興味がなくなり、古典には思想を生み出す力がなくなった。考証学の大家には銭大斤・戴震がいる。(この両者は哲学者としても名がある)

 2庶民文学の進歩

 明に花開いた庶民文学は、清でももてはやされ、題材も豊富になった。「紅楼夢」(曹雪芹)貴族の栄華衰退。「儒林外史」(呉敬梓)封建社会の腐敗 「聊斎志異」(蒲松齢)怪奇もの 「長生殿伝奇」(洪昇)玄宗と楊貴妃の戯曲

3大編纂事業

『康煕字典』今の漢和辞典・JIS 第二水準の標準配列になる
「四庫全書」世界最大の全集。古今の名著を集める。(乾隆期)
「古今図書集成」四庫全書の母胎ともなった全集


帝国主義時代:近代(1840ー)

 アヘン戦争(1840)アロー戦争(1856ー60)と敗れていき、ようやく西洋技術の優勢を自覚し、漢人官僚曽国藩・李鴻章らを中心に技術の摂取に取りかかった。これを洋務運動という。スローガンの「中体西用」という言葉が示すように、伝統的中華思想に西洋の技術だけを移植しようと考えたもので、国家体制の近代化ははかられなかった。その結果が日清戦争(1894ー95)の敗北である。衝撃を受けた康有為・梁啓超らは、日本に倣って立憲君主国家の樹立を目指した。これを変法自強運動という。(二人は学問では公羊学派に属する。公羊学とは微妙な一語一句にも聖人の意図を認め、実際政治に応用しようとする試み)しかしこの試みは、西太后の反動クーデターにより失敗、康有為・梁啓超は日本に亡命した。
 義和団事件(1899ー1901)の敗北で、清朝を倒そうとする動きが本格化し、孫文が三民主義(民族独立・民権伸張・民生安定)を掲げて革命を起こし(=辛亥革命 1911年)秦以来の帝政に終止符を打った。しかし孫文の基盤は弱く、すぐに軍閥袁世凱に実権が移った。軍閥割拠・半植民地状態に中国は苦しんだ。
 1919年、第一次世界大戦後のベルサイユ条約で日本が押しつけた対華二十一カ条の廃棄要求を拒否されたことが引き金となって、北京大学を中心に反帝国主義運動がまきおこった。これを5・4運動と称する。一連の運動で文芸界では白話運動(口語文学運動)がおきた。その中心人物は胡適で、1917年に雑誌「新青年」に「文学改良芻議」を発表した。また、魯迅は「阿Q正伝」「狂人日記」を発表し、中国近代文学運動が本格化した。
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