続けざまに莫邦富『日中「アジア・トップ」への条件』と、星野博美『愚か者、中国をゆく』を読みました。
莫氏の著書では、中国人だからここまで中国人に対して言えるんだろうなあ、もし同じようなことを日本人が言ったら、中国の人はどういう反応を示すのだろう、と思うところがいろいろありました。もちろん莫氏も中国人からかなり攻撃されているようでお気の毒ですが。
でも、政治的に微妙な問題についてはほとんど書かれていないですね。そこがやや不満です。ただ、こういうことを中国語でビシッと言える中国語の実力と、中国への深い理解と、そして中国人への思いやりの心を持ちたいものです。
で、後者は、そういう思いを持ちつつも、いろいろなことにぶつかって、中国のバカやローと叫んでいる著者の冒険譚が痛快です。いずれ作品にして発表しようなんて考えてもいなかった当時の旅なので、実は一冊の本に仕立てるようなクライマックスなんてありません。
それでも、だからこそ、ちまちまとした旅の描写、そして想像絶する、まさに諦観というか悟りの境地に至らない生きていけない中国の実態を描いていて面白いです。
ただ、あたしが一番感じたのは浦島太郎的な著者の現在の中国に対する距離です。
あたしは著者ほどには中国にどっぷりとつかった経験はありません。もちろん滞華時間なんて何百分の一です。言うまでもないことですが、中国語の能力に至っては著者の何千分の一でしょう。
それでも、著者に数年後れで一ヶ月、北京に短期語学研修に行きました。88年のことです。もう20年経つわけです。
その間の中国の変化はものすごいです。あの頃撮った写真が、88年ですら、<古き良き北京>と呼べそうな当時の記録になっています。短い時間とはいえ、あのとき吸った北京の空気、感じた北京の感触、すべてが今の北京ではほとんど感じられなくなっています。
最後のエピソードとして著者は、今の中国の若者から「それいつの時代の話ですか?」と、さも大昔のことのように驚かれたことを書いています。
あたしも著者ほどの会話能力があれば、北京で88年当時のことを若者に話せば同じようなリアクションをされるのだろうと思います。いまの北京や上海の高校生や大学生たちは、あのころの街の様子も何もかも知らないんですよね。
そんなことを読み終えて感じました。
ということで、興味を持った方はこちらとかこちらをご覧ください。