2008年8月 4日

「そ」じゃなくて「ぞ」?

テレビドラマ版の「恋空」の視聴率が、あまりふるわかなかったそうですね。もう飽きられたのでしょうか? やはり主役が、映画版では今をときめくガッキーでしたけど、今回のテレビ版だと「誰?」という感がなきにしもあらずですからね。

 

ま、映画も見てないし、テレビドラマも見るつもりないですし、もちろん原作本も読んでいないですから、視聴率云々はどうでもいいことです。あっ、当然ですが、ケータイでも読んでませんよ、念のため。

 

で、たまたまそんなニュースをネットで見ていて気づいたのです。

 

「恋空」って「こいそら」ではなくて「こいぞら」なんですね?

 

なんで濁音なんでしょう? (あくまで物語上は?)ピュアな青春恋愛物語なわけですから、「ぞ」なんて濁音を使うより、「そ」の方が響きもきれいではないでしょうか?

 

ウィキペディでも読み方は「ぞ」ですよね? これが昔っからの正しい読み方なのでしょうか?

2008年7月 5日

手招きしている本

別に、びっくり絵本とか仕掛け絵本などのことではありません。

 

本屋さんに並んでいる本を見ていると、時に「あたしを買って! あたしを読んで!」と訴えかけてきているとおぼしき本に出会うことがあります。

 

先日もそういう本に出会いました。

 

 

崖っぷち高齢独身者 (光文社新書 354)

 

サブタイトルには「30代・40代の結婚活動入門」とあります。つまり、ここでいう「高齢」というのはおじいちゃん、おばあちゃんという年齢の人ではなくて「30代、40代」の人を指しているのです。

 

この線引き、たぶん人によって反発はあるかもしれません。著者が言うには、これ以上の年齢になると、連れ合いと死別したり離婚したりした人が残りの人生を共に歩むパートナー捜しという色合いが濃くなって、初婚で自分の家庭を築きたいと考えている人とはかなり異なり、そういう結婚を望む場合には40歳というのが一つの壁になっている、という理屈です。

 

あたしには医学的な知識がないので何とも言えませんが、高齢出産を考えた場合、やはり世間的には40歳というのは一つの壁として認識されていると思いますし、その後の子育ての苦労(主として肉体的な)を考えると、やはり40をリミットと考えるのはわかります。

 

男性の場合、40歳以上でも大丈夫と思われがちですが、やはり子育ての肉体的な苦労では女性と同じことでしょう。それは、あたしにも自覚があります。最近、疲れやすいし、疲れがとれないですから......(涙)

 

アマゾンの読者レビューにもありますが、著者の結婚の条件はやや容姿にこだわりすぎているかもしれません。でもわが身を振り返ってみれば、そうやってこだわるからこそ(それも自分の容姿を棚に上げて!)、ずっと結婚できずに来てしまったんだということをいみじくも証明しています。

 

それに、やはり著者が男性だから、男性目線からはそうなのでしょうけど、女性から見たら、お見合いパーティにしろ結婚相談所にしろ、果たしてこういう印象になるのだろうか、そういった意味では本書で書かれていることは、かなり偏った意見なのかもしれません。

 

でも、本書をトータルで考えれば、結婚できない人というのは、そもそもが他人とのコミュニケーション能力の弱者であり、場合によっては社会常識の欠けた人であるという指摘、そして、まずはそこから直していかないと結婚など夢のまた夢であるということを、自分の体験を赤裸々に語りながら示してくれた著者の潔さには敬意を表しますね。

 

2008年6月20日

鼻がポロリと光君......

吉祥寺の本屋さん、ブックスルーエのPR誌、というのかチラシに「ルーエの伝言」というのがあります。間違っても、ユーミンのルージュの伝言ではありません。

 

その最新号の編集後記に源氏物語のことが書かれています。今年が源氏物語にとってアニバーサリーイヤーだというのは知っていますが、源氏物語なんて、多くの人がほとんど読んでいないのでしょうね。

 

かく言うあたしも高校時代の古典の時間に巻頭「桐壺」が教材になっていたので多少読んだくらいで、あとは「若紫」も教材に入っていたでしょうか。そんな程度です。

 

だいたいのあらすじは知っていますが、昔から気になっていたのは源氏の最晩年が描かれていないってことです。確か「幻」とかいう帖で物語はぶちぎれて、その後はかなり時代が飛ぶんですよね?

 

版本学や古典学の研究成果がどうなっているのか知りませんが、この源氏の最晩年、つまり源氏の死が描かれていないのと言うのは、もともとなかったのでしょうか、それとも伝来の途中で失われてしまったものなのでしょうか?

 

なんか、とても気になります。

 

『「カラマーゾフの兄弟」続編を空想する』という本が出ていますよね。『続 明暗』なんて本もありましたよね。そういった感じで、この源氏最晩年を創作した人っていないのでしょうか? どなたかご存じであれば教えてください。別に現代語でも構いません。既に室町や江戸時代に、そういう作品ってあったのでしょうか? そんなことすら知りません。

 

 

でも、あたし思うんですよ。

 

たぶん源氏の最晩年は、若い頃からの女遊びが祟って、性病を患って死んでしまったのではないかって。光の君と呼ばれた絶世の貴公子が、梅毒になり、鼻がポロッと落っこちてしまうなんて、とても書けませんよね、紫式部には。でも山東京伝あたりなら書きそうな気がしますけど......

 

梅毒か淋病か、はたまたエイズかはわかりませんが、たぶん性病で死亡、それが光の君の墓誌銘の最後に記される文言ではないでしょうか?

 

2008年6月17日

浦島太郎的感慨

続けざまに莫邦富『日中「アジア・トップ」への条件』と、星野博美『愚か者、中国をゆく』を読みました。

 

莫氏の著書では、中国人だからここまで中国人に対して言えるんだろうなあ、もし同じようなことを日本人が言ったら、中国の人はどういう反応を示すのだろう、と思うところがいろいろありました。もちろん莫氏も中国人からかなり攻撃されているようでお気の毒ですが。

 

でも、政治的に微妙な問題についてはほとんど書かれていないですね。そこがやや不満です。ただ、こういうことを中国語でビシッと言える中国語の実力と、中国への深い理解と、そして中国人への思いやりの心を持ちたいものです。

 

で、後者は、そういう思いを持ちつつも、いろいろなことにぶつかって、中国のバカやローと叫んでいる著者の冒険譚が痛快です。いずれ作品にして発表しようなんて考えてもいなかった当時の旅なので、実は一冊の本に仕立てるようなクライマックスなんてありません。

 

それでも、だからこそ、ちまちまとした旅の描写、そして想像絶する、まさに諦観というか悟りの境地に至らない生きていけない中国の実態を描いていて面白いです。

 

ただ、あたしが一番感じたのは浦島太郎的な著者の現在の中国に対する距離です。

 

あたしは著者ほどには中国にどっぷりとつかった経験はありません。もちろん滞華時間なんて何百分の一です。言うまでもないことですが、中国語の能力に至っては著者の何千分の一でしょう。

 

それでも、著者に数年後れで一ヶ月、北京に短期語学研修に行きました。88年のことです。もう20年経つわけです。

 

その間の中国の変化はものすごいです。あの頃撮った写真が、88年ですら、<古き良き北京>と呼べそうな当時の記録になっています。短い時間とはいえ、あのとき吸った北京の空気、感じた北京の感触、すべてが今の北京ではほとんど感じられなくなっています。

 

最後のエピソードとして著者は、今の中国の若者から「それいつの時代の話ですか?」と、さも大昔のことのように驚かれたことを書いています。

 

あたしも著者ほどの会話能力があれば、北京で88年当時のことを若者に話せば同じようなリアクションをされるのだろうと思います。いまの北京や上海の高校生や大学生たちは、あのころの街の様子も何もかも知らないんですよね。

 

そんなことを読み終えて感じました。

 

 

 

ということで、興味を持った方はこちらとかこちらをご覧ください。

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