2008年3月 4日

ケータイ文学と呼ばれる日?

いま通勤電車の中や書店回りの途次、『なぜケータイ小説は売れるのか』を読んでいます。もうほとんど読み終わりかけているのですが、たまたま今朝の朝日新聞の映画評を読んでいたら、なんか言ってることが似ているなあと感じました。

 

まあ、前者は当然のことながら「恋空」が主要な作品の一つですし、後者もその映画版「恋空」について触れていますから、似ていると言えば似ているわけですよね。

 

朝日の記事の中の

「今まで自分は何をやってきたのか。これから何をやっていいのか分からなくなった」というプロデューサーも

という言葉なんか、かなり似た表現が『なぜケータイ...』にも登場します。

 

あたし自身は、もちろんケータイ小説は読んだことないですし、ケータイで小説を読もうなんて気が起きませんが、別に「あれは文学じゃない」なんて切り捨てる気もありません。

 

何も読まないよりは、一応は「本」を読んでくれているわけだし、そこから本格的な小説などに進む高校生だって少なくないだろう、と比較的楽観視しているんです。

 

ちょうど、電子辞典に対して語学の教師が最初のうちは、あんなの引いても力は付かない、と言っていたのが、そのうち「電子だろうと紙だろうと、とにかく辞書を引いてくれる習慣さえ付いてくれれば」と軟化(?)していったのと二重写しに感じます。

 

それにしても、ケータイ小説って文学じゃないんでしょうか? なんか昔、赤川次郎が出てきた頃、あれは文字で書かれたマンガだ、という評があったような気がしますが、それと同じ風を感じます。

 

いずれはケータイ小説も「ケータイ文学」と呼ばれる日が来るのでしょうか? そしてこの潮流を後世の文学史家は平成ならぬ「ヘーセイ文学」なんていうピリオドで括るのでしょうか?

 

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