2012年9月14日

現在進行形

来週火曜日に配本予定の新刊『北朝鮮 14号管理所からの脱出』読了しました。



facebookに二回ほど感想を書きましたので、今回は最後の最後、訳者あとがきから以下の文章を引用したいと思います。とある記者会見におけるシン・ドンヒョクの発言です。
私は自分が有名になるためにこの本に協力し、こういう場所で話をするのではありません。北朝鮮にこのようんば収容所があることをみなさんに知ってもらいたいのです。私の仕事は、今このときも虐待され死を待つだけの二〇万人が北朝鮮の収容所にいるということを世界に知ってもらうことなのです。これまでにナチスの強制収容所、ユーゴスラヴィア紛争での虐殺などがジャーナリストによって報じられてきました。しかし、すべては悲劇が終了したあとでした。あんなにたくさんの人々の命が失われてしまったあとでそれを知って何の役に立つでしょう? 北朝鮮の強制収容所は、現在も進行中の悲劇なのです。
まさしく、この本の日本語版を出版する意義も、この文章に凝縮されていると思います。

北朝鮮の内部を暴露したり描いたりしたノンフィクション、あるいは脱北者の手記は多数出版されていますが、本書がそういう数ある本の中に埋もれてしまわず、しっかり読者の手に届いてほしいと思います。

2012年7月24日

好きだと言われたら......

文庫になった『サムシングブルー』読了。

まあ、たいていの人は自分の高校時代、学生時代を思い出すでしょうね、この小説を読んだら。よい想い出か、嫌な思い出かは、人それぞれでしょうけど(爆)。

飛鳥井千砂さんの作品は、かつて『君は素知らぬ顔で』を読んだことがあります。丁寧に登場人物を描いている作家さんだなあという記憶があります。ただ本書の場合、主人公が面倒くさいタイプになってしまっている気がしますが、失恋した直後に元カレが元親友と結婚すると聞いたら、だれだってこんなふうになってしまうのでしょうか? それに27歳という年齢は、やはり「そろそろ結婚?」という年齢になるのでしょうね、女性の場合。

この小説を読みながら、昔のクラスメートとの再会というシチュエーションを自分なりに想像してみましたけど、高校卒業から三十年弱、いまさら逢おうよという気分にもなりませんし、甘酸っぱい想い出も何もありません。そもそも、この主人公のように自分が声をかけられるかということからして大いに疑問です。現に卒業後、誰からも連絡がありませんから。

ですから、クラスメート同士が結婚したという例があるのか否か、そんなことすらわかりません。第一、あたしのように恋人イナイ歴=年齢の人間には、元カレ・元カノといった存在があり得ませんから、本書の主人公のような立場に置かれるなんてあり得ません。これはこれで幸せなことかも知れませんね。

それはそうと、この作品の中で「確かに、よっぽど嫌いな相手でない限り、好きだと言われたら嬉しいものだ。」(P.135)というセリフがあります。

本当にそうなんだろうか、そうなんだろうなあ、と思うのですが、あたしはたぶん「よっぽど嫌いな相手」になってしまう可能性が高いなあ、と漠然と思います。だから誰かに好きだなんて言いませんし、言ったこともありません。

2012年5月 7日

死者との蜜月期

まだ配本前の新刊ですが、版元の特権で読み終わりました。『ぼくが逝った日』です。

主人公である「僕」は既に死んでいます。突然の病気で、21歳という若さで、あっという間に死んでしまったのです。その亡くなった「僕」、幽霊になった「僕」の目を通して、父親や母親、友達や親類たちの様子が語られていきます。もっと端的に言ってしまえば、両親がどうやって息子の死を乗り越えたか、それを息子がつぶさに眺めている、そういう物語です。

死んだ「僕」は、少なくともこの物語の中では、時に両親を茶化したりしながら、かなり冷めた目で両親の言動を見守っています。時には「あれれ?」「やれやれ」と思いながら、他人事のように眺めています。そこには、「もっと生きていたかった」「なんで自分は死ななければならなかったんだ」というような無念とか、生への執着といったものはありません。素直に自分のを死を受けて入れているというか、死んじゃったんだからジタバタ騒いでも仕方ない、という諦めの境地といった高尚な感じもありません。

確かに死んだのかも知れないけど、こうやって両親の側にいて両親を見ていられるのだから、両親からは見えないだけで自分は今もここにいる、という感覚なのでしょうか? このカラッとしたところは、この作品全体を貫く基調になっている気がします。決してお涙頂戴の、ジメッとした作品ではなく、時には滑稽で、クスッと笑いたくなるシーンすらあります。

でも、だからこそ息子の死を乗り越えようとする両親の言動に涙を誘われるのかも知れません。
あの犬は僕の匂いをいつまで覚えているのかな。三ヶ月くらいしたら確かめてみよう。新しい政権だって、百日は蜜月期というらしいから、新しい死者との蜜月期、何を見てもその人のことを思い出したり、名前を浮かべただけで涙ぐんだりする期間はどれくらい続くのか。百日か、一年か、三年か? これは客観的に計測できる。ヤンカが僕のスリッパに飛びつき、くんくん嗅いだり、革をかじったりする期間はどれくらいか。親父と母さんが、僕の残した些細な痕跡を探しまわる日はいつ終わるのか。何かにどっぷり浸っては涙ぐむのはいつまでか。いかなるときも、二人の生活が僕を中心にまわるのは、これからもずっと続くことなのか。なかなか興味深い問題だ。ねえ、親父、正直言ってさ、あんただって泣いてないときには、そんなことを考えたりするんじゃない? 僕が死んだあとは目もくれずにいた未来を、ちらりと覗き見るようにして。(P.7)
こんなふうに「僕」は冷めているのです。ただ、忘れることができないのは、この作品を書いたのは、決して「僕」ではなく、「親父」だということです。半ばノンフィクションのこの作品、息子の死をこんな小説に仕立て上げられるようになるまで、父親はどれほどの葛藤を乗り越えてきたのでしょうか。

なお、自社本の宣伝ではありませんが、本書とペアで、文庫クセジュ『喪の悲しみ』を読まれることをお薦めします。

2012年3月21日

スケール感

読み終わりました、和辻哲郎の『日本倫理思想史』、岩浪文庫の全4巻!



なんという清々しさでしょう! 確かに、実際に読む時間は多少かかったかも知れませんが、実感としては一気に読んでしまった、そんな思いがします。

それにしても、このスケールの大きさ。

確かに、細かな点、個々の具体的な事例を取り上げれば、今となっては誤っているところも多々あるのでしょう。でも、それは和辻哲郎の生きた時代の制約によるものでしょう。今の世に生きていれば、現在の学問水準を反映した記述ができたはずです。

しかし、そんな細かな、小さな瑕疵を指摘するよりも、本書を通じて感じられる、物事の全体をとらえる目の確かさ、全体を見通す眼力、そんなものを味わうのが醍醐味ではないでしょうか? 最近の学者ではとても太刀打ちできないものを感じます。

それだけに、第4巻の最後、学問が時代にこうしきれなかった時代を扱った和辻の悔しさが胸に迫ります。

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