2012年5月 7日

死者との蜜月期

まだ配本前の新刊ですが、版元の特権で読み終わりました。『ぼくが逝った日』です。

主人公である「僕」は既に死んでいます。突然の病気で、21歳という若さで、あっという間に死んでしまったのです。その亡くなった「僕」、幽霊になった「僕」の目を通して、父親や母親、友達や親類たちの様子が語られていきます。もっと端的に言ってしまえば、両親がどうやって息子の死を乗り越えたか、それを息子がつぶさに眺めている、そういう物語です。

死んだ「僕」は、少なくともこの物語の中では、時に両親を茶化したりしながら、かなり冷めた目で両親の言動を見守っています。時には「あれれ?」「やれやれ」と思いながら、他人事のように眺めています。そこには、「もっと生きていたかった」「なんで自分は死ななければならなかったんだ」というような無念とか、生への執着といったものはありません。素直に自分のを死を受けて入れているというか、死んじゃったんだからジタバタ騒いでも仕方ない、という諦めの境地といった高尚な感じもありません。

確かに死んだのかも知れないけど、こうやって両親の側にいて両親を見ていられるのだから、両親からは見えないだけで自分は今もここにいる、という感覚なのでしょうか? このカラッとしたところは、この作品全体を貫く基調になっている気がします。決してお涙頂戴の、ジメッとした作品ではなく、時には滑稽で、クスッと笑いたくなるシーンすらあります。

でも、だからこそ息子の死を乗り越えようとする両親の言動に涙を誘われるのかも知れません。
あの犬は僕の匂いをいつまで覚えているのかな。三ヶ月くらいしたら確かめてみよう。新しい政権だって、百日は蜜月期というらしいから、新しい死者との蜜月期、何を見てもその人のことを思い出したり、名前を浮かべただけで涙ぐんだりする期間はどれくらい続くのか。百日か、一年か、三年か? これは客観的に計測できる。ヤンカが僕のスリッパに飛びつき、くんくん嗅いだり、革をかじったりする期間はどれくらいか。親父と母さんが、僕の残した些細な痕跡を探しまわる日はいつ終わるのか。何かにどっぷり浸っては涙ぐむのはいつまでか。いかなるときも、二人の生活が僕を中心にまわるのは、これからもずっと続くことなのか。なかなか興味深い問題だ。ねえ、親父、正直言ってさ、あんただって泣いてないときには、そんなことを考えたりするんじゃない? 僕が死んだあとは目もくれずにいた未来を、ちらりと覗き見るようにして。(P.7)
こんなふうに「僕」は冷めているのです。ただ、忘れることができないのは、この作品を書いたのは、決して「僕」ではなく、「親父」だということです。半ばノンフィクションのこの作品、息子の死をこんな小説に仕立て上げられるようになるまで、父親はどれほどの葛藤を乗り越えてきたのでしょうか。

なお、自社本の宣伝ではありませんが、本書とペアで、文庫クセジュ『喪の悲しみ』を読まれることをお薦めします。

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