2012年5月31日
明日から衣替え、あるいはクールビズスタートなわけですが、そんなことにはお構いなく、既に真夏のようないでたちの人も街には大勢見かけます。
書店営業のかたわら、大学生協などにも時には顔を出しますが、大学生の装いはまさに季節の変わり目を象徴しています。たまたま見かけた女の子は、胸の谷間がまぶしいくらいの薄着で、こちらガメのやり場に困るくらいで、一生懸命ケータイをいじっておりました。
しかし、そのすぐ隣にいる別の女の子は長袖を二枚重ねできていて、スエットと言いますか、フリースと言いますか、とにかくまだ肌寒い春先に着たらちょうどよさそうな格好でした。時と場所を同じくして、こんなにも服装が異なるとは、やはりこれが季節の変わり目だからなのでしょう。
昼間はかなり暑くなるものの、朝晩はそれなりに冷え込んだりします。特に都心と異なり多摩地区は、寒いと感じることもあります。体感は人それぞれでしょうから、それぞれの感度に応じて着るものを調節すればよいわけですから、たまたま見かけたこの女の子二人を避難するつもりは毛頭ありません。むしろ、非難されるべきは明日を境に一斉に切り替えようとする高校などの制服だと思います。
最近はそれでもかなり緩くなっているところも増えたみたいですが、5月までは暑い日があっても冬服、逆に6月からはまだ寒い日があっても夏服を強制させられることも多々あるようですね。そういう一辺倒名対応はどうなのでしょうか?
2012年5月30日
映画監督の新藤兼人さんが亡くなられました。100歳だそうです。昨今、テレビで拝見するときは車椅子に乗られていましたが、それでも矍鑠としてお元気な様子で、とても亡くなるような感じはしませんでしたが......
あたしの勤務先からはこんな本が出ております。
恐らく、現在手に入るもっとも充実した評伝ではないでしょうか?
それにしても、先日の吉田秀和さんといい、どうして立て続けに関係者が亡くなるのでしょう? 少し時間を遡れば、井上ひさしさんもそうですし、J.D.サリンジャーも。そりゃ、人間誰でもいつかは死ぬわけですが、あまり頻繁だと気になるものです。
そう言えば、あたしの父が亡くなった前後数年は、親戚や知り合いなどでも不幸が続きました。こういうことに「はやり」という言葉を使うのは不謹慎ですが、それでも「はやってる」と言いたくなるほどの数年間でした。それに、続けざまに親戚で不幸があると、葬式、七七忌、一周忌、三回忌といった関連行事も続くわけで、個人との親疎によってすべてに顔を出すわけではないにしろ、一年中喪服を着ていたような時期があったことは確かです。
こういう風に、身の回りで不幸が続く時、「離を持つ」と言うらしいです。あたしが「離」を持っているから、あたしの周囲で不幸なことが起きるというわけです。
その伝で行けば、今はあたしの勤務先が「離」を持っているのでしょうか?
くわばら、くわばら。
2012年5月29日
フェイスブックの「友達」という表記に慣れません。慣れることができません。
果たしてこの人はあたしの友達なのだろうか、と考えると、たぶん友達ではないなあ、という結論に落ち着いてしまいます。
お前に友達なんているのか、という原理的な質問に立ち返ってしまうと、もうそこから一歩も前へ進めなくなってしまいますが、とにかく、この「友達」という表記に、時々ものすごい違和感を感じるのです。
フェイスブックにログインすると、しばしば「知り合いかも?」というメッセージと共に、何かしら共通点の或る日とがランダムに表示されます。この「知り合いかも?」という問いかけには、実に素直に、そして自然に「はい、この人は知っています。知り合いです」と答えられるのですが、ではその流れで「友達になる」というボタンをためらいもなくクリックできるかというと、マウスを誤操作しない限り、とてもそんな気軽なものではありません。
いや、たかがフェイスブック、そんなに深刻に考えなくてもいいじゃないか、という意見もあるでしょう。確かにそうなんです。こんなことで神経をすり減らすなんてバカげています。だから、いっそのこと、自分から「友達になる」ことは一切せず(←まさしく今のあたしはこの状態)、他人から「友達申請」が来てもすべて断わる、という踏ん切りが付けばよいのですが。
とはいえ、ほとんど「友達申請」は来ませんし、上限を20名となんとなく決めているので、そこまでは我慢してみようと思います。それにしても、かれこれ10年以上も実名でホームページを持っているのに、小中高時代のクラスメートからメールが来たことが一回も無いというのは、それはそれですごいことではないでしょうか?
2012年5月28日
書店営業の主要な任務は、売れている本をプッシュして、返品させないようにするとか、追加注文をもらうようにすることであります。
「返品させないようにする」という言い方では表現が悪いかも知れませんが、「この本、このところ売れているんですよ」という情報を提供することで、目立つ位置に置いてもらうようにするのが本来の目的です。
ただ最近はさまざまな段階で返品率の向上、改善ということが叫ばれ、追加で注文を出してくれる書店が少なくなりました。もちろん、これまでがかなりアバウトな発注の仕方であったという面はありますが、返品率という数字に睨まれ、もっと並べればまだまだ売れるのに、と思うことも時にあります。
ジャンルによって事情はかなり異なりますが、例えば人文書などで新刊が3冊入荷したとして、一週間か二週間で2冊売れたとします。出版社の営業としては、特に書評も出ていない段階で、6割以上の消化率になっているわけですから、さらに追加注文をもらってさらに売れるように働きかけたいところです。以前なら確かにこのような場合、追加で5冊、という書店が多々ありました。
それが最近は、「ああ、よかった。あと1冊だ。これなら返品しないで済む」と考え、せっかく返品もしないで1冊まで減ったのに、追加注文なんてもってのほか、という書店が増えているような気がします。そういう気持ちもわかります。こちらだって無理矢理注文を取ろうとまでは思いませんし、ましてや勝手に押しつけるなんてことは致しません。
でも、こういう場合、その残った1冊が売れたらどうするのでしょうか? とりあえず一冊注文して、しばらくは棚に1冊は在庫しているようにするのでしょうか。それともきれいさっぱり売り切っておしまい、なのでしょうか。次から次へと新刊が到着する書店現場では、後者のやり方を選択する書店、書店員さんも多いと思いますし、着実増えている気がします。
そうなると、このお店ではその本は3冊売れたということになりますが、出版社としてはタイミングよく追加注文をもらっていれば、あと数冊は売れたのではないかという気持ちを抱えることになります。もちろん、本の内容や値段、その書店の客層によっては3冊が精一杯のお店もあれば、10冊くらいは行けそうなお店もあります。そういうお店の特徴をつかんで勧めるのが営業の腕の見せどころなのですが、昨今は上に書いたように、最初から追加など滅相もないという書店が多くなっていると感じます。
3冊入って全部売り切り返品なしなんて、返品率を下げろという圧力が高まっている書店現場では模範的な成績でしょう。でも、もしかしたら5冊売れたかも知れないと考えると、6割の達成率にしかなっていないとも言えます。
売れるか売れないかはやってみないとわかりませんから、書店側の言い分も出版社側の言い分もどちらも正しくもあり、誤ってもいて判断が難しいところです。
ただ、こういうことは言えます。
その本を売り切った書店では、売り切った後、当然のことながら、その本の売り上げが立つはずはありません。その状態がしばらく続いたとして、そんなタイミングで出版社から「売れているので追加注文いかがですか?」と問われても、直近の売り上げは0冊のはずです。このところ売れていないから追加は見送るというのがデータから読み取れる回答かも知れません。でも、置いていない本が売れるはずはないわけで、「置いていたなら」というifの話は後の祭りではありますが、時にはそういう事例も起こります。
いや、たぶん全国的に、人員削減で十分に棚を触れていない書店員さんが、事務所のパソコンのデータだけで在庫管理をしていると、きっとこういう自体が頻発しているのではないでしょうか?