2012年2月18日

新文化2/16

前回、ガイブンや人文書は決まった書店で売れると書きましたが、そんな折、社内で回覧された業界紙「新文化」の2月16日号に面白い記事がありました。業界人四氏による座談会です。

その座談会の中で、「読者は偏在していないのに、本が偏在している」という発言がありました。あたしの書いたこととは真逆です。いや、実際には真逆なのではないです。読者(お客さん)が買いたい本が置いてある本屋にわざわざ足を運んでくれているというだけのことだと思います。

でも、あたしは、やはり読者は偏在していると思います。個人の好みや趣向ってどうしても周囲の環境に左右され影響を受けるものです。ふだん外国人を目にすることもない地域の人の多くは英語などの外国語を学ぼうとは思わないでしょうし、逆に周りにフランス人が多ければフランス語を勉強しようと思う人が増えるものです。

同じように、周りに本を読む、本が好きという環境がある地域とそうでない地域では本を求める人の数は違うと思います。相乗効果も働くでしょう。友達がサッカー好きだったから自然と自分もサッカーが好きになった、と同じ理屈です。仮にどんな集団にも同じ割合で本が好きな人がいると仮定したとしても、分母が大きい都市の方が絶対数は多くなります。初版を1000部しか作らない本をどのように全国の書店に配本するかと考えれば、大都市圏にその8割方を集中するのはやむを得ないところです。結果、都市の人はますます本が好きになり、本屋のない地域の人は本とは疎遠になっていくのです。

また、自分の住んでいる街に本屋がない、自宅から駅までの間に一軒も本屋がないということを危機的な状況なように話されていますが、本当に人々は本屋を求めているのでしょうか? 震災後の東北を見ろと言われるかも知れませんが、本屋以外にも廃業したお店はいくらでもあります。廃業したのは後継者がいなかったという場合を除けば、結局は地域の人々に必要とされなくなったからではないでしょうか? 各地の病院がよい例ではないでしょうか? それこそ本屋よりも必要な施設だと思いますが、それでも廃業、閉院せざるを得なくなっています。

ところで、本屋を無くさないようにと言いますが、その本屋ってどんなものをイメージしているのでしょうか? まさか、新宿の紀伊國屋書店、池袋のジュンク堂書店のような巨大な本屋ではないですよね? そんな本屋、東京だって私鉄沿線の各駅に一軒ずつあったら共倒れになります。

たぶん、実際にはかつて駅前にあったような50坪から、せいぜい100坪程度の書店のことを言っているのではないでしょうか? 書店に行っても本がなかったという不満を聞くこともありますが、全国にある、そういう小さな書店にまで一冊ずつ配本できるほど、出版社は本を作っていません。作れません。

絶対に返品がないというのであれば出版社も作りますし配本もするでしょうけど、現在の業界のルールではそうはなっていませんから出版社にそれは出来ません。ただ、一部の出版社を除けば、たいていの出版社はお客様からの注文があればどんなに小さな書店にだって本を送ります。そもそも全国の本屋が大きいのか小さいのかなんて出版社はすべてを把握しているわけではありませんから。

そういう、地域の読者にとって本への入り口となる本屋が消えるというのは、出版社によっては厳しいかも知れませんが、学術書中心の出版社にとってはあまり関係ないかも知れません。そもそもがそういう小さな街の書店ではほとんど売れることがないからです。「置かしてくれれば売ってみせる」と豪語する書店もありますが、どうでしょう? 出版社からすると、リスクが高すぎます。

あたしは、こういった書店の話を読んだり聞いたりすると、大型スーパーにやられた商店街のケース、大型電気店に脅かされる街の電気屋のケースを思い出します。どちらもやられっぱなしではなく、大型店を向こうに回して売り上げを伸ばしているところもたくさんあります。

業界のルールなどあまりにもいろいろな条件が異なりますが、あたしはそういう事例から何かヒントになることが得られないかと思います。今回の「新文化」の座談会も書店、出版社と立場の異なる人が参加していて、これはこれで興味深いし面白く、示唆に富むものだったと思います。が、もし次を考えるのであれば、そういう異業種の人を交えたものにできないだろうか、そう思いますし、そういう人の話を聞きたいと思います。

読んだ感想を書く