幸福比べ[解説など&和訳]
引き続き、アラン『幸福論』の読み比べです。今回は解説や訳者あとがきについてです。
まず岩波文庫は非常にあっさりとした「幸福論」の解説とアランの略歴を載せています。これではやや物足りなく感じるほどです。純粋に本文を読んで読者それぞれが何かしら感じてくれればよい、という意図もあるのでしょうか? また、「幸福論」の翻訳が何種類も出ている以上、アランについては他書に任せた、という気持ちもあるのではないかと思われます。
角川ソフィア文庫は、「幸福論」についての概論も含め、ある程度まとまったアランの略歴が載っています。人としての生き方や人間関係の作り方、そういった視点から「幸福論」を解説しています。
集英社文庫もオーソドックスな略歴が載っていますが、角川文庫よりはやや分量が多く、そのぶん詳しくなっています。アランに関する解説もあり、清水徹氏の「鑑賞」はアラン自身のものの考え方を解くような内容です。
白水Uブックスは、フランス人の国民性という視点からの「解説」と訳者・中村雄二郎氏のごくごく簡単な解説です。
こういった本を読む場合に読者がどのくらい「解説」や「訳者あとがき」などまで読むものかはわかりません。「そんなところまで読んでいられない」という人には岩波、白水がささっと読める分量だと思います。逆にアランについてもう少し詳しく知りたいという人にとっては集英社、角川がお薦めです。集英社の方が分量も多く、どちらにも年譜がありますが、集英社の方が詳細です。「鑑賞」という面からは白水社のものが読んで面白いと感じましたが、このあたりは個人の好みによるところでしょう。「アランのことが知りたいんだ、お前の個人的感想や体験談なんか知ったこっちゃない」という人もいるかと思います。
さて肝心の本文です。先にも書きましたように、見た目の読みやすさは白水と角川です。同じように本屋で並んでいたら、パラパラとめくってこのどちらかを選ぶ人が多いのではないでしょうか? ただしばらくすれば、やはり訳文の善し悪しでおのずと評価もされてくるものです。いま「善し悪し」と言いましたが、あるいは好みといった方がよいかも知れません。
四者とも訳者解説などを読む限り、「幸福論」が最初から順番に読まれることを想定していないようです。ふと思い立ってページを開いたところを読んでください、あるいはプロポのタイトルから気になったものをつまみ食い的に読んでください、といった姿勢を感じます。確かに体系的な著述ではありませんから、最初から順を追って読んでいく必要はないわけですが、角川の鎌田氏の解説では、終盤の90章から93章をまず読むことを勧めています。そこで、まずはそれらのタイトル(プロポ)を並べてみます。
90 幸福は気前のいい奴だ(岩波)、幸福は高邁なもの(角川)、幸福は寛大なもの(集英社)、幸福は寛大なもの(白水社)
91 幸福になる方法(岩波)、幸福になる法(角川)、幸福となる方法(集英社)、幸福である法(白水社)
92 幸福にならねばならない(岩波)、幸福たるべき義務(角川)、幸福になる義務(集英社)、幸福たるべき義務(白水社)
93 誓わねばならない(岩波)、誓うべし(角川)、誓うべし(集英社)、誓うべし(白水社)
やはり岩波だけがちょっと違うことが多いようです。では具体的な訳文のいくつかを以下に拾ってみます。どの文体が気に入るかはお任せします。
まずは第90章から。
なるほど、われわれは他人の幸福を考えねばならない。その通りだ。しかし、われわれが自分を愛する人たちのためになすことができる最善のことは、自分が幸福になることである。このことに人はまだあまり気づいていない。(岩波)
われわれは他人の不幸を考えなければならぬ、というのはほんとうである。しかし、われわれが自分を愛してくれる人たちのためになしうる最善のことは、やはり自分が幸福になることだ、ということを人はあまり言わない。(角川)
なるほどたしかに、わたしたちは他人の幸福のことを考えねばならない。だが、わたしたちが自分を愛してくれる人たちのためになしうる最善のことは、やはり自分が幸福になることであるということは、じゅうぶんに言われていない。(集英社)
たしかに、われわれは他人の幸福のことを考えねばならない。しかし、われわれが自分を愛してくれる人たちのためになしうる最良のことはやはり自分が幸福になることだ、ということは十分に言われていない。(白水社)
最初のセンテンスは、角川のみ「他人の幸福」が「他人の不幸」となっていますね。次に第77章から。
しあわせだから笑っているのではない。むしろぼくは、笑うからしあわせなのだ、と言いたい。(岩波)
幸福だから笑うわけではない。むしろ、笑うから幸福なのだと言いたい。(角川)
幸福だから笑うわけではない。むしろ、笑うから幸福なのだと言いたい。(集英社)
笑うのは幸福だからではない。むしろ、笑うから幸福なのだと言いたい。(白水社)
続いて第92章から。
幸福になるのは、いつだってむずかしいことなのだ。多くの出来事を乗り越えねばならない。大勢の敵と戦わねばならない。まけることだってある。(岩波)
幸福になることは常にむずかしい。それは多くの人々に対する闘争である。負けてしまうこともある。(角川)
幸福になることは、いつでもむずかしいのだ。それは、多くのできごとと多くの人々に対するたたかいである。そのたたかいに打ち負かされることだってある。(集英社)
幸福であることは、いつでもむずかしい。それは、多くの出来事と多くの人々に対するたたかいである。負かされてしまうことだってある。(白水社)
あまり引用ばかりしていても仕方ないのでそろそろ終わりにします。最後に第87章と第91章、そして第3章から。
幸福とは、報酬など全然求めていなかった者のところに突然やってくる報酬である。(岩波)
幸福とは、褒美を求めなかった人たちのところへ来る褒美である。(角川)
幸福とは、報酬を求めなかった人々のところへくる報酬なのだ。(集英社)
幸福とは、褒美を求めなかった人たちのところへ来る褒美なのだ。(白水社)
* * * * * * * *
自分の不幸は、現在のものも過去のものも、絶対他人に言わないことである。...(中略)...すなわち自分について不平不満を言うことは、他人を悲しませるだけだ、つまり結局のところ、人に不快な思いをさせるだけだ。たとえそういう打ち明け話を聞きたがっていても、たとえ人を慰めるのが好きなように見えても、である。(岩波)
現在のでも過去のでも、とにかく自分の不幸について、決して他人に話をしないということだろう。...(中略)...それは、ぐちは他人を悲しませる、つまり他人がそういう打明け話を聞きたがり、慰めるのが好きらしいときでさえも、しまいにはいや気をおこさせる、ということだ。(角川)
現在のものにせよ過去のものにせよ、自分の不幸についてけっして他人に話さないということだろう。...(中略)...それはすなわち、自分について愚痴をこぼすことは他人を憂鬱にするだけだ、つまり他人がそういう打ち明け話を聞きたがり、慰めるのが好きらしい場合でさえも、けっきょく、他人を不愉快にするだけだ、ということである。(集英社)
現在のものにせよ過去のものにせよ、自分の不幸の話をけっして他人に話さないことだろう。...(中略)...すなわち、愚痴をこぼすことは他人を憂鬱にするばかりだ、つまり他人がそういう打明け話を聞きたがり、慰めるのが好きらしい場合でさえも、結局のところは不愉快にするばかりだ、と。(白水社)
* * * * * * * *
ほめられると、笑い者にされているとみる。親切にされると、侮辱されているとみる。何か秘密を打ち明けられると、よからぬ謀りごとがあるとみる。こうした想像力の喚起する病については、治しようがないのだ。不幸な人間は、すばらしい出来事でさえもむなしいことだと一笑に付してしまうから。(岩波)
お世辞を言われるとばかにされたと思い、親切にされると侮辱されたと思った。秘密は彼女にとって腹黒い悪だくみであった。不幸な人間にとってはどんなによい出来事でもおもしろくないという意味において、こういう想像から来る病気には療法がない。(角川)
お世辞を言われると、からかわれたのだと思い、親切にされると、侮辱されたのだと思った。秘密は、腹黒いたくらみと思われた。こういう想像からくる病気には、どんな好ましいできごとがほほえみかけても不幸な人間にはむだであるという意味において、つける薬がない。(集英社)
おせじを言われるとからかわれたのだと思い、親切にされると侮辱されたのだと思った。秘密は彼女には腹黒いたくらみと思われた。こういう想像力の病気にはつける薬がない。不幸な人間には、どんなに好ましい出来事がほほえみかけてもむだなのだ。(白水社)
まず岩波文庫は非常にあっさりとした「幸福論」の解説とアランの略歴を載せています。これではやや物足りなく感じるほどです。純粋に本文を読んで読者それぞれが何かしら感じてくれればよい、という意図もあるのでしょうか? また、「幸福論」の翻訳が何種類も出ている以上、アランについては他書に任せた、という気持ちもあるのではないかと思われます。
角川ソフィア文庫は、「幸福論」についての概論も含め、ある程度まとまったアランの略歴が載っています。人としての生き方や人間関係の作り方、そういった視点から「幸福論」を解説しています。
集英社文庫もオーソドックスな略歴が載っていますが、角川文庫よりはやや分量が多く、そのぶん詳しくなっています。アランに関する解説もあり、清水徹氏の「鑑賞」はアラン自身のものの考え方を解くような内容です。
白水Uブックスは、フランス人の国民性という視点からの「解説」と訳者・中村雄二郎氏のごくごく簡単な解説です。
こういった本を読む場合に読者がどのくらい「解説」や「訳者あとがき」などまで読むものかはわかりません。「そんなところまで読んでいられない」という人には岩波、白水がささっと読める分量だと思います。逆にアランについてもう少し詳しく知りたいという人にとっては集英社、角川がお薦めです。集英社の方が分量も多く、どちらにも年譜がありますが、集英社の方が詳細です。「鑑賞」という面からは白水社のものが読んで面白いと感じましたが、このあたりは個人の好みによるところでしょう。「アランのことが知りたいんだ、お前の個人的感想や体験談なんか知ったこっちゃない」という人もいるかと思います。
さて肝心の本文です。先にも書きましたように、見た目の読みやすさは白水と角川です。同じように本屋で並んでいたら、パラパラとめくってこのどちらかを選ぶ人が多いのではないでしょうか? ただしばらくすれば、やはり訳文の善し悪しでおのずと評価もされてくるものです。いま「善し悪し」と言いましたが、あるいは好みといった方がよいかも知れません。
四者とも訳者解説などを読む限り、「幸福論」が最初から順番に読まれることを想定していないようです。ふと思い立ってページを開いたところを読んでください、あるいはプロポのタイトルから気になったものをつまみ食い的に読んでください、といった姿勢を感じます。確かに体系的な著述ではありませんから、最初から順を追って読んでいく必要はないわけですが、角川の鎌田氏の解説では、終盤の90章から93章をまず読むことを勧めています。そこで、まずはそれらのタイトル(プロポ)を並べてみます。
90 幸福は気前のいい奴だ(岩波)、幸福は高邁なもの(角川)、幸福は寛大なもの(集英社)、幸福は寛大なもの(白水社)
91 幸福になる方法(岩波)、幸福になる法(角川)、幸福となる方法(集英社)、幸福である法(白水社)
92 幸福にならねばならない(岩波)、幸福たるべき義務(角川)、幸福になる義務(集英社)、幸福たるべき義務(白水社)
93 誓わねばならない(岩波)、誓うべし(角川)、誓うべし(集英社)、誓うべし(白水社)
やはり岩波だけがちょっと違うことが多いようです。では具体的な訳文のいくつかを以下に拾ってみます。どの文体が気に入るかはお任せします。
まずは第90章から。
なるほど、われわれは他人の幸福を考えねばならない。その通りだ。しかし、われわれが自分を愛する人たちのためになすことができる最善のことは、自分が幸福になることである。このことに人はまだあまり気づいていない。(岩波)
われわれは他人の不幸を考えなければならぬ、というのはほんとうである。しかし、われわれが自分を愛してくれる人たちのためになしうる最善のことは、やはり自分が幸福になることだ、ということを人はあまり言わない。(角川)
なるほどたしかに、わたしたちは他人の幸福のことを考えねばならない。だが、わたしたちが自分を愛してくれる人たちのためになしうる最善のことは、やはり自分が幸福になることであるということは、じゅうぶんに言われていない。(集英社)
たしかに、われわれは他人の幸福のことを考えねばならない。しかし、われわれが自分を愛してくれる人たちのためになしうる最良のことはやはり自分が幸福になることだ、ということは十分に言われていない。(白水社)
最初のセンテンスは、角川のみ「他人の幸福」が「他人の不幸」となっていますね。次に第77章から。
しあわせだから笑っているのではない。むしろぼくは、笑うからしあわせなのだ、と言いたい。(岩波)
幸福だから笑うわけではない。むしろ、笑うから幸福なのだと言いたい。(角川)
幸福だから笑うわけではない。むしろ、笑うから幸福なのだと言いたい。(集英社)
笑うのは幸福だからではない。むしろ、笑うから幸福なのだと言いたい。(白水社)
続いて第92章から。
幸福になるのは、いつだってむずかしいことなのだ。多くの出来事を乗り越えねばならない。大勢の敵と戦わねばならない。まけることだってある。(岩波)
幸福になることは常にむずかしい。それは多くの人々に対する闘争である。負けてしまうこともある。(角川)
幸福になることは、いつでもむずかしいのだ。それは、多くのできごとと多くの人々に対するたたかいである。そのたたかいに打ち負かされることだってある。(集英社)
幸福であることは、いつでもむずかしい。それは、多くの出来事と多くの人々に対するたたかいである。負かされてしまうことだってある。(白水社)
あまり引用ばかりしていても仕方ないのでそろそろ終わりにします。最後に第87章と第91章、そして第3章から。
幸福とは、報酬など全然求めていなかった者のところに突然やってくる報酬である。(岩波)
幸福とは、褒美を求めなかった人たちのところへ来る褒美である。(角川)
幸福とは、報酬を求めなかった人々のところへくる報酬なのだ。(集英社)
幸福とは、褒美を求めなかった人たちのところへ来る褒美なのだ。(白水社)
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自分の不幸は、現在のものも過去のものも、絶対他人に言わないことである。...(中略)...すなわち自分について不平不満を言うことは、他人を悲しませるだけだ、つまり結局のところ、人に不快な思いをさせるだけだ。たとえそういう打ち明け話を聞きたがっていても、たとえ人を慰めるのが好きなように見えても、である。(岩波)
現在のでも過去のでも、とにかく自分の不幸について、決して他人に話をしないということだろう。...(中略)...それは、ぐちは他人を悲しませる、つまり他人がそういう打明け話を聞きたがり、慰めるのが好きらしいときでさえも、しまいにはいや気をおこさせる、ということだ。(角川)
現在のものにせよ過去のものにせよ、自分の不幸についてけっして他人に話さないということだろう。...(中略)...それはすなわち、自分について愚痴をこぼすことは他人を憂鬱にするだけだ、つまり他人がそういう打ち明け話を聞きたがり、慰めるのが好きらしい場合でさえも、けっきょく、他人を不愉快にするだけだ、ということである。(集英社)
現在のものにせよ過去のものにせよ、自分の不幸の話をけっして他人に話さないことだろう。...(中略)...すなわち、愚痴をこぼすことは他人を憂鬱にするばかりだ、つまり他人がそういう打明け話を聞きたがり、慰めるのが好きらしい場合でさえも、結局のところは不愉快にするばかりだ、と。(白水社)
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ほめられると、笑い者にされているとみる。親切にされると、侮辱されているとみる。何か秘密を打ち明けられると、よからぬ謀りごとがあるとみる。こうした想像力の喚起する病については、治しようがないのだ。不幸な人間は、すばらしい出来事でさえもむなしいことだと一笑に付してしまうから。(岩波)
お世辞を言われるとばかにされたと思い、親切にされると侮辱されたと思った。秘密は彼女にとって腹黒い悪だくみであった。不幸な人間にとってはどんなによい出来事でもおもしろくないという意味において、こういう想像から来る病気には療法がない。(角川)
お世辞を言われると、からかわれたのだと思い、親切にされると、侮辱されたのだと思った。秘密は、腹黒いたくらみと思われた。こういう想像からくる病気には、どんな好ましいできごとがほほえみかけても不幸な人間にはむだであるという意味において、つける薬がない。(集英社)
おせじを言われるとからかわれたのだと思い、親切にされると侮辱されたのだと思った。秘密は彼女には腹黒いたくらみと思われた。こういう想像力の病気にはつける薬がない。不幸な人間には、どんなに好ましい出来事がほほえみかけてもむだなのだ。(白水社)
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