2011年9月 4日

どぜう

恐らく、この数日、ネットの検索ワードでもっとも急上昇したのではないかと思われる「どじょう」さん。あたしは、金魚の真似をしようとしているドジョウなんて見たことありませんが、実際にいたら見てみたいものです。

と、こんな風に書くくらいですから、あたしはあまり相田みつをが好きではありません。と言いますか、相田みつをはいいのですが、その亜流がどうも好きになれません。よく駅前の広場とかにいるじゃないですか、地べたに座って色紙に一言二言、味わいもなにもない字で書いて売っている人。あんな一言で何を感動するのでしょうか? 何をありがたがるのでしょうか?

壮絶な人生とか、苦しい修行とか、艱難辛苦を乗り越えた人の一言には重みと切実感が備わっていて、それなりに傾聴に値するものですが、そんな背景も抜きに、いきなり色紙の一言を突き出されて感動できる精神構造が理解できません。

でも世間ではこういうのが流行っているのでしょう。食べ物屋などの壁に、いかにも相田みつをを意識したとおぼしき文字で、その店の売り文句「当店は有機農法に拘った、選りすぐりの食材を云々」的な口上が書かれている店をあちらこちらで見かけます。そういう店を見ると入る気が失せます。

と、閑話休題。

そうではなくて、ドジョウです。

新総理が自分をドジョウにたとえたことから、新聞紙上では「どじょう総理」なる言葉が踊りました。日本人であれば、相田みつをの言葉を思い出すまでもなく、泥臭く決して派手ではないけれど、その愛すべきキャラを理解できると思います。やや世代間格差はありそうですが......

でも、海外ではどうでしょう?

どじょうを翻訳し、総理大臣を翻訳してつなげるだけで配信されているのではないでしょうか? 報道としては第一報はそれでよいかも知れませんが、それで果たしてその国の人に伝わるのでしょうか? やはり第一報以降は直訳ではなく意訳を心がけなければならないのかも知れません。

ニュースではとりあえず第一報で直訳の「どじょう総理」が世界を駆け巡ったみたいですが、そのニュースを聞いていて翻訳苦労話的なものを思い出しました。確か、翻訳家の柴田元幸さんか岸本佐知子さんのトークイベントで聞いた話です。

アメリカの小説を翻訳していて、「私の目が黒いうちは......」という日本語に訳せばニュアンスから何までピッタリくる文章があったそうです。ところがこの小説の登場人物はアメリカ人で白人だったので、瞳の色は青です、黒くはありません。日本語への翻訳としては絶妙だけれど、青い目のアメリカ人が果たして「俺の目が黒いうちは」なんてセリフを使うだろうか、と悩まれたというエピソードです。

あたしが覚えているのはこのエピソードですが、ほかにもこれに類する翻訳苦労話をいくつかされていました。翻訳って、文字のままに訳せばいいってものではないんだなあと改めて思ったものです。原文に忠実に訳すか、翻訳される国の文化に合わせてアレンジするか、さすがに「超訳」は行き過ぎとしても、上の例のような問題は、翻訳家が原文と格闘していれば日々出てくる問題なのでしょう。

で、先の「どじょう」です。「どじょう+総理」という翻訳で海外に翻訳されて、それでよしとしてしまってはいけないのではないか? ならば、どう翻訳するべきか。ここは一つ、いろいろな翻訳家の方に聞いてみたいところです。

あなたなら、「どじょう総理」をどのように翻訳しますか?

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