2011年8月25日

クラシック

このダイアリーでも数回、書店における人文の歴史書と社会の海外事情の棲み分けについて書きました。かいつまんで言いますと、一般に書店の人文書コーナーの歴史の棚では、第二次世界大戦までを扱っていて、第二次大戦以降は社会書コーナーの海外事情とか国際情勢の棚で扱われているのです。すべての書店の棚がそうなっているとは言いませんが、一定規模以上の多くの書店ではおおよそこんな分け方が主流です。

ところが今や2011年。第二次大戦以降が余りにも長くなってしまいました。ベテラン書店員さん、つまりそこそこ年配の書店員さんであれば、文化大革命、ベトナム戦争といったことも「そりゃまだ歴史じゃないでしょ。朝鮮戦争だともう歴史と言っていいかなあ」くらいの感覚でしょうけど、若い書店員さんだと、それこそ湾岸戦争が「歴史」になってしまうかもしれません。

このあたりの世代間格差、というか意識差は別として、客観的に考えてもそろそろ歴史の棚と海外情勢の棚の境目について考えるべき時に来ていると思われます。もちろん人文と社会とい分け方自体をやめてしまって、フランスに関するものは全部ここ、中国に関するものは全部あそこ、という棚の作り方も「アリ」だと思います。

とまあ、こんな話題は昨今、人文担当の方と話しているとしばしば出る話題なのですが、翻って文芸書ではこういう問題って起きないのでしょうか、と思いました。

例えば日本文学。源氏物語や徒然草、近松や馬琴などは「日本古典」で異論のないところでしょう。では漱石、龍之介、鴎外などは古典でしょうか、それとも現代作家でしょうか? と考えて、はたと気づきました。漱石とか鴎外の単行本って、いまありますか? 藤村や志賀直哉でもいいです。川端康成は如何でしょう?

ちょうどボーダーに当たる作家連中の本が、軒並み単行本では並んでいないのではないでしょうか? となると、文芸担当の方がそれで悩む必要もないわけですよね。漱石論とか鴎外論などになれば、それは文芸評論という棚がありますから問題ないですけど、作家自身の作品は文芸書のコーナーにないんですね。

って、これって日本の書店としてよいのでしょうか? 日本近代を代表する作家の本が本屋の文芸書のコーナーに置いてないなんて。

いや、これは書店が悪いのではないです。出版社がいけないと思います。

でも、ちょっと漢字が読める外国人が日本旅行の時に本屋にぶらりと入ってきて、その人はちょっと日本文学に興味があって学生時代に勉強したこともあり、せっかく日本に来たのだから有名な漱石の本でも一冊買っていこう、と思ったとします。当然、漢字が読めるわけですから多少の意味も知っているでしょう。あたしたちが欧米へ旅行して本屋に入って「Literature」とか「History」などの単語を頼りに棚を探すのと同じです。

「日本文学」とか「文芸」といった棚を見つけ、目を皿のようにして、知っている漢字を頭の中でフル動員して探しても、買いたいと思っていた漱石の本が見つからない。これって、日本の本屋としてどうなのでしょう? もちろん文庫本では手に入りますし、その方が安いですから、その外国人さんが文庫本にたどり着ければラッキーと思うかも知れません。でも、文庫本では装丁を味わうなんてことはできませんよね。

おっと、ちょっと脱線しました。外国文学はどうでしょう? どのあたりから古典になるのか、門外漢のあたしはよくわかりませんが、ゲーテとかオースティンなんかもドイツ文学、イギリス文学のコーナーに並んでいますよね。ロシア文学の棚は相変わらずトルストイやドストエフスキーが並んでいるのではないでしょうか? 日本に紹介されている各国の作家、作品が偏っているからと言ってしまえばその通りなんですが、これもどうかと思いますね。

確かに文芸書コーナーは、歴史に注目するわけではありませんから、イギリスの作家の作品は古代から現代まで全部ここ、フランスの作品はそこ、という配置もやむを得ないのでしょうか? しかし、では中国文学の棚に、三国志、水滸伝、魯迅、莫言、衛慧などが一緒に並んでいたらどうでしょう? 中国の場合、なまじ漢文という別ジャンルがあるから違和感を感じますけど、外国文学という視点で眺めると、中国以外ではこういう感じで一緒くたにされているんですよね。もちろん、日本の読者に向けた、日本の書店の棚作りなわけですから、日本的な使い勝手、分け方があってしかるべきだとは思いますが。

あたし、正解の出ない問題を考え始めてしまったのでしょうか?

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