2011年8月21日

ひねくれた子供ですか?

ようやく夏の甲子園が終わりました。本当に、やっと終わってくれたか、という感想です。以前にも書いたかも知れませんが、あたしはどうも高校野球が好きではありません。かつてとは異なり、温暖化で亜熱帯のような気候になっている真夏の日本で、炎天下に屋外でスポーツをやらせ、それが青春だ、感動だと言っている朝日新聞的な空気が大嫌いなのももちろんですが、野球だけを特別扱いしているテレビ中継や新聞紙面にも昔からいけすかない気持ちを抱いていました。

あたしの世代では、体育の授業でサッカーやバスケットボールなどをやったりすることもありましたが、放課後に空き地でやる遊びと言ったら圧倒的に野球という世代です。ですから、野球が嫌いなわけではなく、子供のころにやらなかったわけでもありません。たぶん、ごくごく一般的な野球好き程度の思いは持っていた子供です。

でも、そんな子供のころから、あたしは高校野球が嫌いでした。「朝日新聞的云々」はもう少し大人になってから自覚した嫌悪の理由ですが、それ以外は結構子供のころから感じていたものです。暑い中、汗水垂らして、というのに馴染めなかったというのが最大の理由かも知れません。子供らしくない子供と言われればそのとおりでしょう。

あたし自身は自分自身のことを「変わっている」とは思いませんが、子供のころから高校野球の「爽やかスポーツマンシップ」に生理的嫌悪感を覚えていたのだとしたら、やはり変わった子供だったのでしょうか? いや、そんなことはないでしょう。あたしのように感じていた子供だってたくさんいたはずです。それにスポーツよりも文系的な趣味に興味を持っていた子供だって大勢いたはずですから。

ただ、あたし自身のことを考えてみますと、実は子供のころから馴染めなかったものがもう一つあります。それは原爆記念日です。原爆記念日の何が馴染めないのかと言いますと、広島市の騒ぎ方です。

こんなことを書いたら不謹慎どころか、どこかおかしいと思われるかも知れませんが、あたしは子供のころから広島市の原爆に対する態度が嫌いでした。確かに悲劇です。言葉にできない苦しみを受けた広島の方が大勢いるのでしょう。

でも、政治的なカラーも何もない子供のころのあたしが、テレビのニュースなどで見た広島の原爆禁止運動、平和の訴えにはどうも馴染めないものを感じていたのです。はっきり言ってしまうと、「自分たちは世界で最初に核兵器の犠牲になったんだぞ、どうだ、すごいだろ」と自慢しているような雰囲気を感じてしまったのです。自分たちだけが悲劇の主人公なんだという独善的なものを感じていました。

子供のころのあたしは、どうもそのあたりの様子に違和感と言いますか、馴染めないものを感じていたのです。ちなみに当時、長崎に対しては広島ほど派手にニュースで取り上げられていなかったからなのか、あまりそういった感想を持つこともなく、むしろ静かに平和を祈っているという感じを受け、好感を持っていたくらいです。

こうった感情がある程度世の中のことがわかるようになる高校生、大学生になってからのものであるなら、あたしの政治的な傾向と言うこともできるでしょう。でも、あたしはこういった感情を子供のころ、もう少し正確に言えば小学生のころには既に持っていましたから、いわゆる政治的なものはないはずです。もちろん、こういったことを家族で真剣に話したころもありませんから、親の影響もないと思います。

こういう感想を持つ子供って、やはりひねくれていたのでしょうか? この時季になると、甲子園と原爆の日で、毎年のようにこんな感情がわき上がってきます。


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