2011年7月18日

理解力か、周辺知識か?

自社本ですが『イルストラード』を読了しました。

本書をアメリカ文学の棚に置くのか、それともフィリピン文学の棚に置くのか、それは書店員さんの理解と判断によるのでしょうが、あたしとしては先日読んだハ・ジンの『すばらしい墜落』と同じものを感じます。つまり、海外へ出たからこそ書ける面と、故郷離れても完全には脱しきれない面との二つを感じると言うことです。こういうのをボーダー文学と呼ぶのでしょうか。それとも移民文学と呼ぶのでしょうか? そういった文学史の議論はあたしはよく知りませんし関心もないので、ただただ単純に本作品を楽しめればと思います。

しかし、本書はなかなか素直に読ませてはくれません。小説としての地の文があり、主要登場人物である小説家の作品からの引用があり、その小説家の評伝を書いている主人公の草稿があり、こういったものがちょこっとずつ交互に、入れ替わり立ち替わり登場するのです。

だからといって話が錯綜するわけではなく、そういう意味では読みやすいのですが、あたしがわからないのはベースとなっているフィリピンの歴史です。東南アジアの国で、ヨーロッパやアメリカに比べたらはるかに日本に近いところにありながら、実はその歴史については何も知らない、知らなすぎるあたしがいます。

本書には、フィリピンのドロドロとした近代化の歴史が描かれているので、そういったフィリピンの簡単な歴史、この百年ばかりの歴史が頭に入っていたらもっと読みやすいのか、理解しやすいのではないかとも思えます。あるいは単純にあたしの小説を読むための理解力が不足しているのか?

しばしば海外文学が苦手な人が言う理由に、人名がわからない(頭に入ってこない)、情景や風景が浮かばないといったことが挙げられます。人名が入ってこないというのは、本書ではそれほどありません。その人が男か女かわからないような名前も出てきません(←欧米の小説ではわかりにくいことが多い気がしますし、そもそもホモやレズが頻出するので、恋人同士の一方が男、一方が女という常識が通じません)。情景が入ってこないというのも、それほど気にはなりません。

やはり、本書を理解する上で、あたしがもっと自分に書けているなあと感じたのはフィリピン史に関する知識でした。中国好きなあたしは、中国が舞台なりテーマの作品であれば、だいたい歴史も頭に入っているのですんなり読めますsh、人名で苦労することもありません。でも、中国にあまり縁のない人には似たような名前が多いとか、背景となる歴史や政治がわからないのでサッパリ理解できないということも多いようです。

そういう風に、いまだに歴史を引きずっているところにアジア文学の面白さがあり、逆に欧米文学に比べて、いま一つ日本で読者が広がらない理由があるのかも知れません。好きな人にはそういう歴史を引きずった作品こそがその国の文学らしくて面白いのでしょうが、そうでない人には入り口からして入場を拒否されているような気がしてしまいます。

たぶん、この『イルストラード』も、そういう面を持っている作品だと思います。『すばらしい墜落』を、あたしは素直に面白い、中国っぽさも味わえるし、今の文学も感じられる作品だと思いましたが、それはあたしが多少なりとも中国に興味、関心があるからで、たぶんそうでない人には、あたしがこの『イルストラード』で感じたような読みづらさが感じられるのでしょう。

しかし、それでも歯を食いしばって海外文学を読み続ければ、こういう作品でも楽しめる理解力がついてくるのでしょうか。それともやはり、その国の歴史とか作品の周辺知識が必要なのでしょうか。でも、いつまでも周辺知識が必要であっては、なかなか世界で読まれる文学にはならないとも思いますし、一方で、歴史を乗り越えてきたからこそ今があるんだという作家(著者)の思いもわかりますが。

それにしても、本書は、主人公がアメリカから久々にフィリピンに帰国するというのが基本構造の作品です。この蒸し暑い夏、節電のために冷房もあまり使わず、汗だくになりながら本書を読めば、少しは舞台となっているフィリピン、マニラの人いきれ、ムッとするような街の臭い、東南アジアならではの喧噪を感じられるのではないでしょうか。そういう意味では、今このタイミングで読むのにふさわしい作品かも知れません。

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